東京の女
2003/12/11
1933年,日本,47分
- 監督
- 小津安二郎
- 原作
- エルンスト・シュワルツ
- 脚色
- 野田高梧
- 池田忠雄
- 撮影
- 茂原英朗
- 出演
- 岡田嘉子
- 江川宇礼雄
- 田中絹代
- 奈良真養
大学生の良一は姉のちか子と二人暮し。つつましいながら幸せな生活を送っていた。姉は昼間タイピストとして働く傍ら、夜は大学教授のところで翻訳の手伝いをしていると言う。しかし、ある日そのちか子の会社に警察がやって来て、ちか子の素行を訪ねてきた。良一のガールフレンドの春江も家で警官の兄からちか子の噂を聞く…
小津が盛んに作品を作っていたサイレン時の作品の一つ。サスペンス色を効かせて、姉弟の関係を描いた佳作。小津作品の中でも屈指の切なさを漂わせる作品。
まず片付けておかなければならないのはストーリーのほうかもしれない。姉の素行に関して、夜いかがわしい酒場に出ているというのははっきりと言っておいて、もう一つは耳打ち。それがそのうち明らかになるのだろうと思いながら見ていても、結局最後まで明らかにはならない。ので、謎解きをしたくなるわけだが、その謎解きはそれほど難しくはない。まず、「ブラックリストに載っている」というセリフが出てくる。これがまず決定的で、ブラックリストにいえば反社会分子のレッテルを貼られたということであり、この時代反社会分子といえばまず思い当たるのは“アカ”である。と考えてみると、その背後にはいろいろな物語が考えられるわけで、お金を稼ぐ理由もいろいろと思い当たるわけである。
この“アカ”ということを隠したというのは少し調べればわかることなので、たいしたことではないし、いま今作品を見るとき、そのことが大きな意味を持ってくるとは思えない。その時代には“アカ”を描くということは大変なことだっただろう。それがゆえに小津は表現をけずらざるを得なかったらしい。しかし、小津自身が共産党員だったり、プロレタリア映画を撮っていたりしたわけではないので、社会の鏡としての映画が描くべき一つのものとして映画に取り込んだだけのことだろう。
そんなことよりもこの映画がすごいのはとことん「切ない」ということである。これは小津映画の切なさをすべて集約した映画であるような気がする。特に後半の春江と良一の見詰め合い・争い、良一と姉の見詰め合い・争い、そのものの20分ほどの展開の切なさを言ったらない。これはある意味ではサイレントの純粋さがなせる業、言葉によって表現されてしまってはこの切なさは表現できない。だから、弁士つきとかセリフつきで見るよりも、純粋に無音で、あるいは伴奏のみで見たほうがこの映画のよさを感じられるだろう。
小津のサイレント映画は何か一つの要素がことさらに強調される気がする。サイレントの制約の多さ(当時はそうは感じられていなかったとは思うが)、それを跳ね返すために映画を一つの要素に収斂していく、そんな傾向が小津の映画にはあるのだと思う。一本の映画で表現できる限界というものを小津は正確に把握していて、ただそれだけを表現しようとする。そのような姿勢はトーキーになって、カラーになって、どんどん制約が少なくなっても変わらなかった。だから、翻って考えれば、小津らしさというものがわかりやすく出ているのはむしろサイレント映画なのだと思う。サイレント映画というのはとかく敬遠されがちであるけれど、小津に限っていえばスリリングで、しかもわかりやすいのはむしろサイレントなのだということがいえるのだ。
と、総論的な話になってしまったが、「切ない」話に戻って、この切なさというのは、この映画に収斂されているとは言ったが、じつは小津のすべての映画に通底しているともいえる。人と人との会話や関係を示すシーンが切なさを表現しているわけだが、それをことさらに強めるのは間に挟まれる無人のカットである。たとえば時計。この無人のカットというのは小津のどの映画でも非常に効果的に使われているし、多くの場合は切なさを伴う。
その「切ない」無人のカットが確立されたのがこの映画なのではないかと思う。いかにして切なさを演出するのか、その名人芸が如何なく発揮されるこの映画は、とにかく、ただただ、ひたすら切ないのだ…
蛇足。オトコの情けなさ、というのも小津映画に通底する特徴であるが、これもこの映画からも見て取れる。