風の中の牝鶏
2003/12/12
1948年,日本,84分
- 監督
- 小津安二郎
- 脚本
- 斎藤良輔
- 小津安二郎
- 撮影
- 厚田雄春
- 音楽
- 伊藤宣二
- 出演
- 田中絹代
- 佐野周二
- 村田知英子
- 笠智衆
- 坂本武
- 高松栄子
戦後間もない東京、復員してくるはずの夫を待ちながら、幼い息子とふたりで暮らす時子は売る着物もなくなってしまい、生活は窮々だった。そんな折、息子の浩が急に具合を悪くして、病院に駆け込んだ。幸い一命は取り留めたが、時子は入院費の工面に困りきってしまう…
小津の戦後第2作。作られた同時代を舞台にしたリアルなドラマ。小津らしからぬ構図やカッティングがあちこちに見られ、なかなか新鮮。しかしやはり何か違うという気もする。
この映画は「小津らしからぬ」というラベルが非常によく似合う。小津のスタイルは戦前にすでに確立され、そこには完全な「小津らしさ」があった。そして、この作品にもそんな「小津らしさ」の大半はある。ローアングル、動かないカメラ、テーマとしての夫婦、オトコの情けなさ、等々。
しかし、そんな小津らしさは小津映画であるのだから当たり前だとしてみると、この映画には小津らしからぬ面が多々ある。なんといっても、それは構図とカッティングに顕著に見られる。小津監督は基本的に空間を観客に意識させない映画作家であると思う。普通に映画を撮ると、舞台となっている家の構造なんかがわかるようにうまく撮る。たとえば、玄関を正面から取ったカットの次は、その玄関を横からとって、そこに映っている人が移動して部屋のカットに移る。そんな風に、空間を連続的に捉えるものである。しかし、小津の映画の大半は今の例で言うならば、玄関のカットの後にいきなり部屋のカットが来る。それで玄関があって、部屋があることは十分にわかるのだが、部屋が玄関から入って右にあるのか左にあるのかなどということは基本的にわからない(しばらく見ているとそのうちわかることもある)。空間を連続的なものとして捉えるのではなく、断片の集合として捉えさせる。小津の映画にはそんな特徴があるように思える。
しかし、この映画では空間はかなり連続的に捉えられる。なんといっても階段が正面と横との2方向から撮られ、それが空間の連続性を保障するのだ。階段を上っていく人のカットから、部屋のカットに飛ぶときに、階段を画面に入れる。これには何か(マニアックではあるが)小津らしからぬものを感じてしまう。
そこまで細かく見ないとしても、この映画の空間には小津特有のぎこちなさがないのだ。何か一瞬60年代のモダニズム映画を見ているかのような錯覚に陥るくらいの流麗さを備えている。
構図の面でもなかなかモダンな構図が使われる。特に件の家、時子が事を起こしてしまう家のシーンで積み重ねられるカットの構図は非常にモダンである。映っているものが戦争直後にしてはモダンだというのもあるが、どうも構図がモダンなのである。
小津はモダンに向っていく日本の空気を読み取ったかのように早すぎるモダニズムの映画を撮ったのか? 否、小津は小津なりに戦後の自分なりのスタンスというものを模索して、一つの試みとしてこのような映画を撮ってみたのだと思う。しかし、やはり小津は小津。こんなものも撮れるけれど、自分が表現したいものをよりよく表現するのはもっと別な撮り方だと翻意して、また異なるスタイルを探っていったのだろう。
小津とはいろいろな新しい可能性を探りながら、それでも常に「小津らしい」独特なものを撮りつづける作家なのだ。この作品でも、笠智衆が酒を飲む姿を見て、スタイルやテーマ以外にここにも変わらぬ「小津らしさ」があるのだと感じたりした。