10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス
2003/12/19
Ten Minutes Older: The Trumpet
2002年,イギリス=ドイツ=スペイン=オランダ=フィンランド=中国,106分
- 監督
- アキ・カウリスマキ
- ビクトル・エリセ
- ヴェルナー・ヘルツォーク
- ジム・ジャームッシュ
- ヴィム・ヴェンダース
- スパイク・リー
- チェン・カイコー(陳凱歌)
- 脚本
- アキ・カウリスマキ
- ビクトル・エリセ
- ヴェルナー・ヘルツォーク
- ジム・ジャームッシュ
- ヴィム・ヴェンダース
- チェン・カイコー(陳凱歌)
- 撮影
- ティモ・サルミネン
- オリ・バルハ
- アンヘル・ルイス・フェルナンデス
- ヴィセンテ・リオス
- フレデリック・エルムス
- フェドン・パパマイケル
- クリス・ノア
- シュー・ヤン
- 音楽
- ポール・イングリッシュビー
- 出演
- カティ・オウティネン
- マルック・ペルトラ
- アナ・ソフィア・リャーニョ
- ペラヨ・スアレス
- クロエ・セヴィニー
- チャールズ・エステン
- アンバー・タンブリン
- フオン・ユアンチョン(馮遠征)
世界の15人の巨匠が10分という時間制限の中で自由に撮った作品を15本コンピレーションとした『10ミニッツ・オールダー』の1本。もう1本はゴダール、ベルトリッチなどが参加した『イデアの森』。
1本目はカウリスマキ、おなじみの風景の中で男女の物語がつむがれる。それからビクトル・エルセのモノクロームの1篇が続く。ジャームッシュ、ヴェンダース、チェン・カイコーはいかにもな作品を作り、ヘルツォークとスパイク・リーはドキュメンタリーを選択した。それぞれに個性が十全に出て、映画の現代史の入門編ということも出来るような作品になっている。
それぞれの監督がらしさを発揮する。
カウリスマキはあくまでもカウリスマキである。10分という普通に考えたら短い時間にもかかわらず長々とバンドが演奏するシーンを挟み込む。セリフは極端に少ない。登場人物たちの表情は乏しい。それでもそこには“愛”があるように感じる。
ビクトル・エルセは舞台を過去に設定した。物語以前に緊迫した雰囲気が伝わってくる。物語はいろいろに捉えようがある。明確に歴史上の出来事を語る新聞記事と、映像で語られる物語と、そのふたつから味されることをことさらに語ろうとはしないけれど、ずしんと胃の辺りに何かが来る。
ヘルツォークのドキュメンタリーはアマゾンの奥地を舞台にしているという点で、彼自身らの作品『アギーレ/神の怒り』を思い出させる。語られていることも似通っているように思える。何もいわない。しかし、明確なメッセージがそこにはある。
ジャームッシュは若い頃自分が撮っていた作品を取り直したかのような印象だ。まったく何も起こらない時間をフィルムに定着する。何も起こっていない、しかし何か起こっているように感じさせる。彼が本当に撮りたいものとはそんなものなんじゃないかと思わせる10分間がそこにある。
ヴェンダースは確信犯的にロード・ムーヴィーを撮る。10分間のロード・ムーヴィーなどたいした旅にはならないのは仕方のないことだ。しかし、ヴェンダースは自らをパロディ化するかのようにその旅を二重化し、一つのたびに結末をつける。それは何か自分の立ち位置を確認する作業であるかのようだ。彼はこれを機に、再びロード・ムーヴィーへと立ち返るのだろうか?
スパイク・リーは意外な作品を撮った。政治的な作品を撮ることは不思議ではないが、大統領選挙という題材はかなり意表である。これは彼の怒りと無力感の発露であるようだ。様々に人々に語りかけてきた自分の行為が非合理的な方法によって無力化されてしまったことへの怒り。無力感を徒労感へと変えないために、怒りに身を震わせて立ち上がろうとする。そんな姿勢までも伝わってきそうな作品だ。
チェン・カイコーはさりげない。10分間という制約を制約と感じさせない。時間にあわせたひとつの物語をしっかりと物語として撮る。そこには彼がいつも考えているように思える新しいものと古いものとの相克、過去と未来の鬩ぎあい、そのようなものがやはり見える。
まったくテーマなどを設定されていないにもかかわらず、何か統一感があるように思えてしまう。基本的にはどの作品も静かだというのがあるかもしれない。どれも緊迫感がありながら表面上は非常に穏やか、そんな作品が並んだ。その雰囲気は何か現代という時代の裏返し、騒々しい社会に対するアンチ・テーゼ、なのではないかなどとも考えてしまう。