ブルー・イグアナの夜
2003/12/22
Dancing in the Blue Iguana
2000年,アメリカ,124分
- 監督
- マイケル・ラドフォード
- 脚本
- マイケル・ラドフォード
- デヴィッド・リンター
- 撮影
- エリクソン・コア
- 音楽
- タル・バーグマン
- レナート・ネート
- 出演
- ダリル・ハンナ
- ジェニファー・テリー
- シーラ・ケリー
- サンドラ・オー
- シャーロット・アヤナ
ロサンゼルス近郊の町にあるストリップ・クラブ“ブルー・イグアナ”。エンジェル、ジャスミン、ジョー、ストーミーに加えて、ジェシーがダンサーに加わった。5人のダンサーたちはそれぞれに悩みを抱え、しかし懸命に生きる。
『イル・ポスティーノ』のマイケル・ラドフォード監督がダリル・ハンナらの女優を使って描くシリアス・ドラマ。ストリップ・クラブの話だけに、ヌードシーンなども多く、キワモノ作品ともとられがちだが、ストリッパーである以前に一人の女であり、ひとりの人間である彼女たちの生々しい生をじっくりと描き、非常に味わい深い仕上がりになっている。成熟した大人にこそ見て欲しい作品。
こういう映画があるのはいい。特に盛り上がりもなく、特にミステリーもなく、スターもおらず、ロマンスもない。しかし、日常とはそのようなものである。映画が日常であるのか、それとも日常からの逃避であるのか、ハリウッド映画はあまりに日常からの逃避(あるいはトリップ)であるという要素を強めすぎた気がする。いかに非現実的なものをリアルなものに見せかけるのか、そこに技術の重点がいってしまい、他に目が向かなくなってしまった。そしてスターという記号を使って、そのスターを見るや否や現実から夢の世界へとトリップできるように観客を教育してしまった。もちろん、映画が現実の世界から別世界へとトリップさせることができるというのは映画のすばらしさの一つである。しかし行き過ぎは常にマイナス面を伴ってしまう。私がいつも思うのは、そのようなトリップ映画はそれがリアルであればあるほど、われわれの現実からリアリティを奪ってしまうように思えるのだ。映画によるトリップがあくまでも見せかけのものであることはもちろん誰もがわかっていることではある。しかし、その裏で現実が蝕まれていることもまた事実であるのだ。
そんなときに、ふと現実に立ち返らせてくれる映画を見ると、奪われていくリアリティを取り戻せたような気になる。映画を見ることによって自分自身の現実を見つめ、そこから失われてしまったリアリティにはたと気づく。そのような映画がハリウッドからも時折生まれる。そんな映画は概して物語性を欠き、クライマックスを欠く。それは観客が映画へと没入するのを拒否し、観客が自分の位置にとどまって、映画が描いていることを考えるよう促す。
この映画に描かれている世界は決して映画を見る人々の現実から近い世界ではない。あるいは描かれている世界を現実の生活として生きている人はそれほど多くはない。しかし、少なからぬ人たちがそのような生活を現実にしていることは想像に難くない。そんな世界を眺めながらわれわれはその現実ではそれほど近くはない世界の住人であるストリッパーたちがひとりの人間としてはわれわれとほとんど変わらない存在であることに気づく。ある種ステレオタイプ化されたキャラクター(粗暴、タバコを吸う、生活が派手など)を身に纏いつつ、その個性に目を向けると、その個性は様々でわれわれの身近にいる人たちのバリエーションと変わるものではないのだ。
そのように映画を見ることができるのは、この映画が非常に日常的なものとして作られているからだ。不自然な部分がまったくなく、揺らぎが大きい。登場人物のそれぞれが常に揺らぎ、人間らしさを持っている。情報によると、この映画はあらかじめ台本を用意することなく、基本的にはアドリブによって作成されたということだ。アドリブが重ねられるあいだにキャラクターが成立してゆき、そしてまたそれが揺らぐ。それがかっちりと人物像が決まっていてそこからはみ出すことのない多くの映画とは違う部分なのかもしれない。特にダリル・ハンナがいい。