淑女と髯
2003/12/30
1931年,日本,75分
- 監督
- 小津安二郎
- 原作
- 北村小松
- 脚本
- 北村小松
- 撮影
- 茂原英雄
- 栗林実
- 出演
- 岡田時彦
- 月田一郎
- 飯塚敏子
- 川崎弘子
- 飯田蝶子
- 伊達里子
- 坂本武
- 斎藤達雄
- 突貫小僧
剣道の達人で鳴らした髯の岡嶋は、友人で男爵の行本の家に行く途中、不良のモガにかつ上げされている女を助ける。そのまま行本の家に行った岡嶋は行本の妹とその友達のモガたちに髯をバカにされたが、岡嶋は気にしなかった。なかなか就職できない岡嶋はある面接先で、かつあげから助けた女・弘子と再会する。そして、弘子はわざわざ岡嶋の住まいに訪ねて来て…
小津がヂェームズ・槇のペンネームでギャグマンも務めたコメディ。サイレントのコメディということで、どうもアメリカの影響が強いが、コメディとしては消化不良。しかし物語の組み立て方はまったくもって小津の世界で、非常によく出来た話という感じに仕上がっている。
冒頭、剣道の試合のシーン辺りを見る限り、まったくのコメディかと思わせる。雰囲気的には、(剣道のシーンを見る限り)岡田時彦がバスター・キートンのようなアクションで笑わせるのかとも思わせる。しかし、そのシーンが終われば、コメディのネタとされるのは髯くらい。ギャグマンという肩書きをみずからに与えた小津だけれど、ギャグと言うよりはユーモアが映画の中心に据えられる。
小津というのは、おそらく元来楽観的なユーモリストなのだと思う。そんな小津の性向がこの映画には素直に出ている。もじゃもじゃに髯を生やし成田山のお札に手を合わせる岡嶋が髯をそったらモボに早変わり、ということならず、古きよき日本の価値観を保ついい人間であり続ける。そして、モガたちは岡嶋を見直し、惚れてさえしまうのだけれど、岡嶋が本当に思いを寄せるのは、髯という外見にとらわれず、岡嶋の本当のよさを見抜いていた弘子なのだ。というとっても日本的とも言える少々鼻白くさえある物語になる。つまり、『淑女と髯』という題名で、「髯」にスポットが当たっているように見えるけれど、本当に問題となっているのは「髯」ではなく「淑女」のほうである。フェミニストと呼ばれる小津ではあるが、ここでは女性に厳しい目を向けているのかもしれない。本当の「淑女」とは何なのか、男爵家の娘である幾子、貧しいタイピストである弘子、不良のモダンガール、この3人を登場させて、「髯」とのかかわりあい方で「淑女」を問う。それがこの映画のテーマというか、小津のメッセージであるのだと思う。そのメッセージは確かに陳腐なものかもしれないが、ある部分では常に真実を含んでいるし、現代人は特に忘れがちなものであるような気もする。だから、この作品は70年も前のものであっても決して古いと印象は受けないのだ。
画面の作り方にしてもまったくもって小津らしからぬという感じがする。もちろんローアングルではなく、カメラが動いたりもする。しかし、それが小津らしくないから面白くないということにはならない。
前にも書いたような気がするが、サイレント期の小津は映画の撮り方が非常に素直である。それがトーキーになって、わかりにくく(変に)なるというのは、小津が変わったということではなくて、表現方法の違いから必然的に小津が導き出した結論であると思う。
具体的には、トーキーの映画というのは言葉によって様々なことを説明することができる。逆にサイレント映画はすべてを画面によって説明しなければならない。そのとき、見るものが十分に理解できるようにするためにサイレント映画は画面を説明的に使用しなければならない。しかしトーキーの場合、言葉によっても説明が可能になる。つまり、セリフによって物語が語られれば、画面では物語を説明しなくていいということになるのである。だから、画面によって空間構成が説明されなくてもいいし、表情をクロースアップで捉えなくてもよくなる。その結果、トーキーのほうがわかりにくい印象を与え、それが小津らしさにつながっていくのだと思う。
そのせいでサイレントの作品の中には物足りないと思えるものがボツボツ出てくる。この作品もそんな印象を与える作品の一つである。しかしそれは逆にシンプルな小津のよさが見えてくる作品であるということでもある。この作品で言えば、物語の展開の仕方に小津らしさがにじみ出てくる。トーキーになって、複雑さの中に物語が隠されるようになってしまっても、そこには小津らしい物語が存在する。この映画にはそんな物語がシンプルな形で提示されているのだ。