落穂拾い
2004/1/5
Les Glaneurs et la Glaneuse
2000年,フランス,82分
- 監督
- アニエス・ヴァルダ
- 脚本
- アニエス・ヴァルダ
- 撮影
- ディディエ・ルジェ
- ステファーヌ・クロズ
- パスカル・ソテレ
- ディディエ・ドゥサン
- アニエス・ヴァルダ
- 音楽
- ジョアンナ・ブルズドヴィチェ
- 出演
- アニエス・ヴァルダ
ミレーの名画で有名な「落穂拾い」はフランスには昔からある習慣で、他にも様々な絵に描かれてきた。最近では農家がそれをすることは少なくなったが、裕福になった今だからこそ「落穂拾い」をする人々が居る。彼らは収穫後の畑で残った農作物を拾うだけでなく、閉まった市場の残り物を拾い、ゴミ箱に捨てられた食べ物を拾う。
そんな現代のグラヌール(拾う人)たちにヴァルダはカメラを向け、彼らの行動から見えてくる様々なことを語る。そして自身も物を拾い、この映画自体を映像の「落穂拾い」であると語る。穏やかではあるが鮮烈な映像詩。
残り物やごみを拾う人というと、やはりホームレスたちを思い浮かべる。この映画に描かれている人のなかにはホームレスもいれば、そうでない人たちもいる。このような映画を撮ると、現代社会の飽食と貧困という問題にスポットがあたり、文明批判とはいわないまでも、社会批判の視点で映画が組み立てられることになってしまうことが多い。
しかし、ヴァルダはあくまでもグラヌールたちの視線に固執し、決して巨視的な視点で問題を見ようとはしない。自分もまたグラヌールのひとりとなることによって、彼らの始点から社会を眺める。そこから浮かび上がる問題は問題として放置し、そこに何らかの教訓やら批判やらを見出そうとはしない。ヴァルダは物を拾うだけであり、それを生かすのは見ている人たちの仕事なのだ。
だからヴァルダは映像と戯れる。映画を作るために必要な素材を撮っていく/捕まえていくというよりは、まさに拾っていく、興味が惹かれた素材があればただそれを拾う。それは映画の中盤で登場した廃品によって芸術作品を作る芸術家たちとまったく同じ姿勢である。自分が興味を引かれたもの、自分を呼んでいるものをとりあえず拾う。それを集めて組み立ててみると面白いものが出来る。そのような芸術家としての営為によって出来上がった作品はいわゆる「ゴミ」から出来上がっているものであるにもかかわらず美しいもの、あるいは楽しいものである(ゴミから出来た作品が文字通り「美しい」とはなかなか見えないが、「楽しい」といえるものは数多くある)。たとえば、クビのところにボクシング・グローブをつけた犬、それらの寄せ集めによって出来上がった映画はとても楽しい。
ただし、ヴァルダは廃品によって作品を作る芸術家のようになにか一つの完成されたものとして映画を提示しようとしているわけではないと思う。彼女が重要視しているのは「拾うこと」自体であって、その結果ではない。拾う人たちにはそれぞれ目的があり、結果として何かの役に立っているに違いない。しかしそれでも、ヴァルダが興味を持っているのは、拾うことの楽しさとその行為から見えてくる何かなのだ。
彼女はただ節約のために拾う人には冷たい視線を投げかける。果樹園が認めた落穂拾いにやってくる人たち。その中の一人は「子供が嫌がるからきれいなものだけをもっていく」と言う。
あるいは、本当に生きるために拾う人たちにはあまり興味を示さない。拾うことでようやく生きることができる人たちも登場するが、本当に困窮している人はこの映画には登場しない。拾ったもので生きていてもどこか余裕がある人たちにスポットを当てる。おそらくフランスにも拾って食いつなぐのが精一杯という人たちもいるだろう。しかしこの映画に登場する人たちは余裕がありおおらかだ。それはそれだけ余分なゴミがたくさんあるというメッセージなのか、それとも本当に困窮している人たちには目を向けなかったのか。後者の要素は少なからずあるだろうから、映画を見ていてそれがどうもひっかっかるし、この映画の弱点ではある。
この映画は漠然として問題を投げかけ、見る人たちにどこかで反省を促し、しかし、さらなる問題をも孕んでいる。この映画は楽しい映画である。しかし、それをどう見るのか、ただ楽しんでみるだけという見方が事実上不可能である以上、われわれは何かを考えなくてはならない。ヴァルダは「どう思う?」とわれわれに問いかける。ただ問いかける。それが映画というものだと思う。