巴里の女性
2004/1/7
A Woman of Paris
1923年,アメリカ,81分
- 監督
- チャールズ・チャップリン
- 脚本
- チャールズ・チャップリン
- 撮影
- ローランド・トザロー
- ジャック・ウィルソン
- 音楽
- チャールズ・チャップリン
- 出演
- エドナ・パーヴィアンス
- カール・ミラー
- アドルフ・マンジュー
- クラレンス・ゲルタード
映画の冒頭に、チャップリンによる「私は出演していない」そして「これは喜劇ではない」という断りが出る。
舞台はフランス、田舎町で厳しい父親に部屋に閉じ込められたマリーは恋人のジャンと話をするために窓から抜け出す。ふたりは翌日パリに行って結婚するつもりだったが、家に帰ったマリーを父親は入れようとしない。やむなくふたりはジャンの家に行くが、今度はジャンの父親が結婚に反対。二人は駆け落ちを決意して駅に向うが…
チャップリンが監督に専念したメロドラマ。物語はメロドラマの王道という感じだが、映画のテンポのよさは喜劇でなくともさすがにチャップリンという感じ。でもやはり、チャップリン自身が出ていたほうが面白い。
チャップリンといえばコメディ、というイメージは正しい。しかし、チャップリンのコメディは単純におかしいものではなく、悲喜こもごも、笑いあり涙ありの人情劇である。
チャップリンはコメディアンであるが、同時に脚本家であり、監督でもある。演者としてのチャップリンは完全にコメディアンであり、サーカスのピエロのように悲哀を感じさせながらも必ず笑いを観るものにもたらす。しかし、脚本家であり監督であるチャップリンは、演者であるチャップリンの手綱を見事に操り、喜劇でありながらほろりとさせたり、考えさせたりするような映画を作り上げる。
なので、チャップリンは本人が出演さえしなければコメディでない映画も撮れるわけだ。そのことをこの映画は証明したわけで、監督としての力量も十分、映画としても十分な面白みがある。
なんといっても面白いのは人間と人間の関係である。中心となるのがマリーとジャンの関係であることは間違いないが、ジャンと母親の関係、マリーとピエールの関係、マリーと友人の関係なども重要な要素として描かれる。そのそれぞれの関係は一筋縄ではいかず、それは絡み合い、行き違いが生じ、さまざまな悲劇を呼ぶ。それはまさにメロドラマではあるが、リアルでもある。現実の悲劇的な部分を最大限に拡大し、ドラマにした。そのような感じであるから、80年まえの映画であっても自らの経験やら生活やらと重ね合わせることができる。そのあたりがやはりチャップリンが脚本家/監督としても一流であることの証明である。
だがしかし、チャップリンの映画であるのにチャップリンが出ていないというのは観る側からすると非常に寂しい感じがする。あのチャップリンの仕草や動きがあるのとないのとでは映画の面白さは数段違ってしまう。しかし、非喜劇が撮りたかったチャップリンは自分自身が出演することによって喜劇になってしまう(少なくとも観客に喜劇という印象を与えてしまう)ことを危惧し、出演せず、さらに映画の冒頭に断りまで入れた。
それは天才であるからこその悩み、自分がやりたいことと自分に期待されていることとの乖離、それがチャップリンを悩ませていたのだろう。それはまた、トーキー時代との葛藤にも現れる。この映画も後年自ら音楽を加え、トーキー版(?)としたわけだが、チャップリンの映画に言葉は必要なく、サイレントで勝負したかったはずなのだ。しかし観客はトーキー映画を求め、チャップリンにもしゃべることを要求した。チャップリンは後年証明されるようにトーキーも非常に見事に撮ることができた。しかし、彼が本当に撮りたかったのはサイレント映画だったのではないかと思う。
そんな天才であるが故のさまざまの悩み、その一端がこの映画にも見える。