長屋紳士録
2004/1/11
1947年,日本,72分
- 監督
- 小津安二郎
- 脚本
- 池田忠雄
- 小津安二郎
- 撮影
- 厚田雄春
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 飯田蝶子
- 青木放屁
- 笠智衆
- 河村黎吉
- 吉川満子
- 三村秀子
- 小沢栄太郎
- 坂本武
- 殿山泰司
東京のある長屋に住む田代が子供を連れて帰った。田代が言うには父親とはぐれて勝手についてきたらしい。田代と一緒に住む幸平は子供を置くことを嫌がり、向いのおたねに預けろという。おたねも最初は嫌がるが結局一番置くことに同意する。翌日、父親を探そうと茅ヶ崎まで行くが父親は見つからず、やむなくつれて帰ってくる…
小津の戦後第一作は、戦争の影が残る東京を舞台とした群像劇。ほっこり笑わせしみじみ泣かす。戦後の人々のすさんだ心に一服の清涼剤となりそうな爽やかな作品。
小津の戦後第一作は全く地味な映画だ。冒頭で少年が物語の中心に躍り出ることで、突貫小僧が活躍した初期作品への回帰を思わせる(田代と同居する幸平を演じる青木放屁は突貫小僧=青木富雄の兄でもある)。そしてその少年が宿無しであるということは、戦後日本の子供たちの受難を語っているようである。戦争によって親を失った子供たち、生活苦から親元を離れざるを得なかった子供たち、そんな子供たちのことに小津は思いをはせたのか、一人の子供の運命を長屋の住人たちの人情にゆだねる。
戦後の混乱期、人々は配給に頼って生活をし、自分の生活もままならない中、悲惨な展開もありえるわけだが、小津はやはり心温まる物語にする。物語としては単純で、子供が長屋にやってきたという段階でほとんど先の展開は見通せるし、映画はそのとおり進んでいく。そのあたりのすべてがなにか観客たちに安心感を与えたいという小津の意図ではないかと考えるのは考えすぎだろうか。
映画は上に書いたとおり、よそお通りの展開で順調に進んでいくわけだが、すべてが解決したと思われる最後の最後、ストレートなメッセージが現れる。それは、戦災孤児と思われる子供たち。上野の公園にたむろして、面子をしたり、すこし大きな子供たちはタバコを吸ったりしている。いくら自分の生活に精一杯であっても、彼らのことを忘れるな、この長屋のように自分だけで泣くほかの人たちのことも考えてこそ、社会全体が回復していくのだ、とでも小津は言いたげなのである。そのシーンの直前、締めのシーンでおたねは、みんなが自分だけよければいいと思っているというようなことをいう。「他の人はどうでも、自分さえおなかいっぱいになればいい」というようなセリフである。
誰もが不安感を抱いているような時代、小津は穏やかな心温まる物語で人々を安心させ、最後の最後にその物語で描かれている人の温かさや人情をあなたも忘れないで、と語りかける。戦後1作目に現れたのは、つねに世の中のことを考え、博愛的な小津の姿だった。