ジーン・セバーグの日記
2004/1/15
From the Journals of Jean Seberg
1995年,アメリカ,100分
- 監督
- マーク・ラパポート
- 脚本
- マーク・ラパポート
- 撮影
- マーク・ダニエルズ
- 出演
- メアリー・ベス・ハート
『勝手にしやがれ』で日本でも知られる女優ジーン・セバーグ。そのジーン・セバーグが17歳のとき『聖女ジャンヌ』のオーディションによってデビューしてから40歳でこの世を去るまでを日記風に綴る。
映画はメアリー・ベス・ハートがジーン・セバーグに扮して、自らの人生を振り返るという形式がとられ、同世代の女優であるジェーン・フォンダやヴァネッサ・レッドグレイヴにもスポットを当てながら、歴史を振り返っていく。
最初のほうは、なんだかただジーン・セバーグの女優人生を愚痴をたれながら語っているだけで、かったるいという印象である。自伝というか、思うがままに人生を振り返った手記のようなものがあって、それを映像を織り込みながら読んでいるだけという印象である。それでも『聖女ジャンヌ』の火刑のシーンの話などはなかなか面白く、淡々としていながらもなかなか楽しめるものなんじゃないかと期待させる。
それが『勝手にしやがれ』の話になって、さらには自分の夫たちの話になるあたりからどんどん変わってくる。夫が自分の映画で妻に娼婦を演じさせるという話はなるほどそのとおりで、まったくなぜにそんなことになるのかと訝しく思ったりする。この夫ロマンとの関係、彼の女の見方の話のところはかなり面白い。このロマンという人が面白いというのもあるが、このあたりのわき道にそれるというか、思うがままに話を展開していく感じがまさに日記らしく、いわゆる伝記的なドキュメンタリーと違っていて面白いというのもある。
そして、話はさらに大きくなり、私生児であるロマンの父親が俳優のイヴァン・モジューヒンであるという話になる。この俳優のことはもちろん知らないが、この映画の中で無声映画時代にフランスで活躍したロシア人の俳優であるとわかる。そして、映画史的に有名なクレショフ効果の実験の話(クレショフ効果は無表情な役者を撮り、棺と遊ぶ子供と食べ物のカットを交互に挿入することで表情が違って見えてくるというモンタージュの基本的な作用)になり、その実験映像に出ていたのがモジューヒンであると明かされる。
なんだかたいしたことないような気もするけれど、逆に実はたいしたことであるような気もする。このクレショフ効果はその出演者がジーン・セバーグにとって義理の父親にあたるということを差し置いても、彼女にとって非常に意味深いものであって、この映画の中でこの後たびたび登場し、様々な場面で重要な役割を担う。 こんなエピソードを経て、この映画はまるで「ジーン・セバーグの映画史」とでも言うのがふさわしいような壮大な語りへと発展していく。ひとりの女優の人生の物語が、ある一つの映画史へ、あるいはある一つのアメリカ史へ、そのような広がりを見せる。
もちろん、そのような広がりを見せても、この映画はモノローグであり、ジーン・セバーグという個人の視点から見た世界でしかないわけだけれど、そのような非常に主観的な物語であるところにいわゆる伝記的なドキュメンタリーとは違う感触を感じられていい。
自伝が映画化されると、大概それはフィクションになる。誰かがその主人公を演じて、カタルシスのあるひとつの物語を築く。しかし、この映画はそのようなことはせず、あえて現実に存在する映像を積み重ねてドキュメンタリーという形にした。しかし、最初にメアリー・ベス・ハートが「彼女は」ではなく「私は」と語り始めた時点で、ドキュメンタリーではないはずなのだ。それでもその後もドキュメンタリーという体をとりつづけ、見ている側にもドキュメンタリーと納得させるようなつくりなのだ。最初からこの映画はドキュメンタリーであることを否定していながら、そしていわゆるドキュメンタリーの展開を裏切っていきながらも、ドキュメンタリー然としているのだ。
そんな展開の仕方が非常に面白く、よくわからない魅力に引き込まれてしまうという非常に不思議な魅力に溢れた作品である。