シェフと素顔と、おいしい時間
2004/1/16
Decalage Horaire
2002年,フランス,82分
- 監督
- ダニエル・トンプソン
- 脚本
- ダニエル・トンプソン
- クリストファー・トンプソン
- 撮影
- パトリック・ブロシェ
- 音楽
- エリック・セラ
- 出演
- ジャン・レノ
- ジュリエット・ビノシュ
- セルジ・ロペス
パリ、シャルル・ド・ゴール空港、ローズは乗ろうとしていたメキシコ行きの飛行機がストで飛ばなくなったことを知る。彼女は旅立つ前に夫に別れを告げた書置きを見られてはまずいと友人に電話をして回収してくれるように頼むが、トイレに携帯を落としてしまう。
一方、ミュンヘンへ葬式に行く予定のフェリックスも悪天候のため途中のパリで足止めされていた。一刻も早く電話をしたいローズはフェリックスが携帯を持っているのを見かけて、それも借りる。
ジャン・レノとジュリエット・ビノシュというフランスを代表する二人が競演。監督は『王妃マルゴ』などの脚本家として知られるダニエル・トンプソン。
ジュリエット・ビノシュの化粧が濃いので、最初彼女だと気づかないのだが、それはべつに加齢を隠すためとかいうわけではなく、映画のキャラクターとしてそういう設定なのだ。この化粧というのは意外と映画の中でポイントになり、地味ではあるけれどかなりいい味を出すネタとなる。この映画は、そんなふうに地味だけれど味わい深いネタのオンパレードで、なんとなく面白い。あくまで「なんとなく」面白いのである。
それの面白さというのは笑いという面で表われることが多いわけだけれど、決して笑いだけではなく、様々な表われ方をする。それは、実質ふたり劇であるこのふたりの人生が映画の伏線になっていて、それが映画に深みを持たせているからなのかもしれない。これまでに二人が送ってきた人生が少しずつ明らかになっていき、それが映画のネタとして生きてくる。このような展開の仕方が非常に面白く、おしゃれなのである。
「フランス映画=おしゃれ」という図式は一昔前のものであるが、この映画を見ていると、そんな図式が復権されてもいいんじゃないかという気になってくる。そしてそのおしゃれな感じはどうも大人のおしゃれ感じなのである。しかもそれはフランス的な大人である。
フランス的な大人とはいったい何か。フランス人というのはどうも成熟しきれないというか、パリを恋の都といってしまうくらいに常に恋に気を取られている人たちであると(映画を見ている限りでは)思える。フランス映画が作り上げたフランス像というのはじっさいのフランスとは違うものであるが、しかしフランス映画はその映画によって作られてフランス像というものを意外に尊重して映画を作っているような気がする。
その中では、彼ら(フランス人)は決して成熟し切れない人たちであり、しかしそれは成長し続けるということでもあり、子供の面を持ち続け、恋をし続け、しかし大人でもある。その大人というのはクールであったりダンディであったりという冷たい意味での大人ではなく、熱を持った大人であるのだ。それは大人になるというよりはむしろ子供を拡大していったもの、エゴイスティックで感情的で独善的な子供の相貌をそのまま大きくしたような手のつけられない大人であるのかもしれない。それでもなぜか格好よく見えてしまうのは何故だろう。
彼らが大人であるのは、そのような子供の面を隠すことがうまくなったからなのかもしれない。表面的には大人然として振舞うことができるようになるのが大人であると。しかし、恋に直面するとその仮面はたやすく崩れ、子供であり続ける自分自身が首をもたげてくる。そんなものがフランス映画では大人になってしまうのだと思う。
この映画が面白いのは、このふたりがそんな大人であり、彼らはこの映画で切り取られた1日以前にもそうであり、この1日以後もずっとそうであるということがわかってしまう(あるいはわかったような気になる)からでもある。この映画は完結したドラマではなく、人生という長い長いドラマのほんの一部分でしかないのだ。フランス映画とは常にそのように完結しない物語を紡ぎ続けてきたものであるような気もする。この映画もそんな完結しないドラマの一つであり(映画としてはちゃんと完結しているけれど)、なんだかわからないけれどそれが面白いのかもしれない。何が面白いのかといわれると、具体的に言うことは難しいけれど、なんだかとても面白い。
それがおしゃれということなのかな?
しかし、邦題は今ひとつおしゃれじゃない。ちなみに原題は「時差」という意味である。これまたよくわからないけどおしゃれ。