シモーヌ
2004/1/17
Simone
2002年,アメリカ,117分
- 監督
- アンドリュー・ニコル
- 脚本
- アンドリュー・ニコル
- 撮影
- エドワード・ラックマン
- デレク・グローヴァー
- 音楽
- カーター・バーウェル
- サミュエル・バーバー
- 出演
- アル・パチーノ
- シモーヌ(レイチェル・ロバーツ)
- キャサリン・キーナー
- エヴァン・レイチェル・ウッド
- ジェイ・モーア
- ウィノナ・ライダー
- イライアス・コティーズ
映画監督ヴィクター・タランスキーは短編で二度オスカーにノミネートされたことがあるが、作品はちっともヒットしない。今回の作品でも主演女優のニコラのわがままで製作中止を余儀なくされ、元妻で製作会社のトップであるエレインに解雇を言い渡される。ヴィクターは私財をなげうってでも映画を完成させる決心をするが、そこにヴィクターに心酔するハンクという男が現れる。ハンクは完璧な女優を創造したというのだが…
『ガタカ』のアンドリュー・ニコルがCG女優というさもありなんというテーマで、映画界を描いた。そこで起こる騒動はコメディ的な色合いが強いが、かなり風刺の意味も強く、なかなか考えさせる。
CGで役者を創造してしまうというのはさもありなんという話である。ヴァーチャル・アイドル伊達杏子でなくとも、CGによる一人のキャラクターの想像はすでに想像の域ではなく、予想される現実としてある。だからこれを真面目に取り上げてしまうとなかなか深刻な話になってしまうのかもしれない。どんどん突き詰めていくと人間の存在論にまで話が行ってしまいかねない。だからこの映画ではありえない設定を持ち込んで、コメディという形にした。
もっともありえない点は世界中のだれもがシモーヌに夢中になるという点である。この時代にひとりの人間が(それが実際には人間でなくとも)絶対的なスターになるなどということはありえない。ある程度の熱狂は喚起することができるだろう。10万人収容のスタジアムを埋め尽くすくらいのことは出来るかもしれない。しかし、エルビスやビートルズのような全世界的な熱狂を作り出すことなど不可能なのではないかと思う。それは今の時代には情報があまりに多すぎて、すべての人が一つの情報に集中するということがありえないからである。どんなにメディアを駆使したところでシモーヌという情報(それがそもそも情報の集積でしかないというのは面白いところではあるが)は一つの情報でしかありえないのである。
だから、この映画はありえそうな(というよりは近い未来に起こるであろう)現象をテーマにしながら、物語としてはありえない物語を描いていることになる。このねじれがなかなか面白い。この映画を素直に見ると、今のハリウッドに対する風刺、つまりウィノナ・ライダーが演じているような役者たちへの風刺であるように見える。しかし実際はもっと奥、というかより深い部分、あるいは広い範囲への風刺であるのだと思う。
それはシモーヌを生み出せるかもしれないと思ってしまうハリウッドの驕りへの風刺、あるいはこの映画のようにメディアによってたやすく操られてしまうであろう観客(つまり我々)への風刺である。この映画にはそのような風刺が込められている。
われわれは映画を見て、笑い、理解しているような気になっているけれど、実は踊らされているのかもしれない。この映画でシモーヌのクレジットはシモーヌとなっている。それを演じているのはレイチェル・ロバーツであると二次的な情報によって我々は知ることができるけれど、映画を見た段階ではシモーヌが実在の人物であるのか、本当にCGであるのかを判断することは出来ない。まあ、今の技術であれだけリアルなCGが作れるとは思えないので、役者が演じていると推測することは出来るけれど、そのすべては情報なのである。
情報というなんだかとらえどころのないぬるりとしたものがそこにある。情報の集積であるシモーヌと、それを情報に頼ってみる我々、その関係は非常に居心地の悪いものである。シモーヌとはつまり操作された情報であり、我々が目にする情報というのもやはり操作された情報である(そもそも情報とは操作されたものでしかありえない?)。
情報を素直に受け取ってしまう我々は、それが操作されたものであることに気づかない。この映画はそんな我々を風刺しているのだと思う。最後の最後にあるおまけの映像も、実は決しておまけではなく、エンドロールのシモーヌのクレジットとあわせて、我々に念を押しているのだ。この映画もまた操作された情報であると。