飢餓海峡
2004/1/20
1965年,日本,183分
- 監督
- 内田吐夢
- 原作
- 水上勉
- 脚本
- 鈴木尚也
- 撮影
- 仲沢半次郎
- 音楽
- 富田勲
- 出演
- 三國連太郎
- 左幸子
- 伴淳三郎
- 風見章子
- 高倉健
- 加藤嘉
- 藤田進
昭和22年、津軽海峡を台風が襲ったその日、岩内では放火事件が起きた。放火事件の犯人である沼田と木島は仲間の犬飼とともに、列車に飛び乗り函館へ逃げた。たどり着いた函館では台風の荒波で遭難した青函連絡船の救出活動でごった返していた。3人組はその混乱に乗じて船で本土へと渡っていった。函館の刑事弓坂は3人を追って本土へと渡るが、手がかりをつかむことができない。3人組の一人、犬飼は大湊へと向かう途中、娼妓である八重と知り合う。
水上勉の同名小説を内田吐夢が3時間の大作にした。物語りも10年の長きに渡る犯罪劇だが、展開がスリリングで飽きることはない。ある意味では戦後の10年をひとつの犯罪によって捉えようとした作品であるとも言える。
非常に重たいドラマであるのだが、この映画は基本的に変な映画である。「変」というのはけなしているわけではなくむしろほめているのだが、この映画はいろいろな面で変な映画だ。
登場人物としては八重が非常に「変」である。犬飼もそうだが、どこか知能が遅れているというか、スローな感じの人物として描かれている。決して強調されることはなく、物語が進むにつれその印象は薄れていくのだが、それでもところどころ変なところが出てくる。たとえば犬飼の爪で自分の体に触れ、戯れる姿は「変」という言葉以外では説明ができない。
物語は非常に重たい物語であり、「貧しさ」というものに焦点が当てられている。戦中から戦後のそこの知れない貧しさにあえぐ人々が、いやおうなく犯罪に首を突っ込んでいってしまうという、悲惨な物語である。映画の終盤に刑事の一人が言うような「あのように貧しかったら、一体どんな人間になるのか、計り知れない」というような、貧しさが人間性を奪うという考え方はあまりに浅薄で容易に受け入れることはできないが、そのような浅薄な考え方をわれわれは常に持っているということは認めなくてはならないし、戦後のような時期には、そんな浅薄な考え方が肯定できない考え方とは思われていなかったようにも思える。
世間がそのように浅薄に考え、貧困という問題をある種の社会的な病巣のように扱ったからこそ貧しさが犯罪を生み、貧しさと犯罪がいやおうなく結び付けられたということなのだと思う。それは、金銭的な貧しさが、精神的な貧しさを生み、それは犯罪へと結びつくという図式である。金銭的に貧しくとも、精神的に豊かであれば、貧しさが犯罪に結びつくことはないと思うが、それもまた本当の貧しさを知らない浅薄な考え方なのかもしれない。
この物語の主人公犬飼もまたそんな貧しさの中から這い上がろうとして、しかし犯罪を犯してしまった人間であった。もう一人の主人公八重は、貧しさゆえに娼妓に身を落としてしまった人間であった。この二人は共通した部分を持っている。だからこそ犬飼は初対面である八重に魅かれ、安心感を覚え、救おうとしてお金を渡した。その犬飼によって八重は救われ、精神的には貧しさから立ち直っていく。
この八重の物語によって犬飼の物語は中断され、10年間の空白を置いて、またわれわれの前に現れる。果たして彼はどのように変わっているのか、彼もまた貧しさから(精神的に)救われたのか。というのは、この物語の焦点となるので、ネタばれ防止のため書くことはしない。
しかし、最後の最後に犬飼によって語られる物語こそ、貧しさと貧しさにあえぐ人々と世間との関係を端的に表すものであり、紛れもなくこの映画の主題である。間違いなく貧しさとは無縁な世間の側にいるわれわれは犬飼の言葉をどう受け取るか。それが3時間の助走をつけてわれわれに突きつけられる刃なのである。
<ここから先はどうしても書かずにはいられない、ネタばれ解釈です>
ここからはかなり散漫になってしまいますが…
犬飼/樽見は最初から精神的な貧しさとは無縁な人間だった。そんな彼が否応なく犯罪に巻き込まれ、どんどん精神的に貧しくなっていく。それは、八重が犬飼によって精神的な貧しさから救われたのとはまったく逆の方向の物語なのである。
犬飼/樽見自身もそのことに気づいておらず、八重がやってきてはじめてそのように貧しくなってしまった自分に気づくのだ。そこから先の樽見はまったく持って、精神的な貧者である。
そして、その自分に恥じ入り、最後には生き恥をさらすよりも死を選ぶしかないと考える。
精神的な貧しさというのは必ずしも金銭的な貧しさの中から生まれるものではない。高倉健演じる味村刑事などは精神的には非常に貧しい人間だ。
ただ、金銭的には貧しいにもかかわらず、精神的には貧しさを逃れていた犬飼がどこか知能の遅れたようなスローな人間として描かれているのは「白痴」的なありきたりの、そして浅薄な物事の捉え方のような気がして非常に居心地が悪い。
あるいは、樽見の言っていることがすべて嘘で、もともと犬飼/樽見は精神的にも貧しく、生まれ故郷の村人たちを買収して伝説を作り上げてまで操作をかく乱したのかもしれない。と、考える余地がこの映画にはある。樽見が身投げをした後の長い長い余韻は、ありえたはずのさまざまな可能性に思いをはせる時間になるのである。
このラストも含めて、この映画はシーンの終わりに残す間の取り方が非常にいい。あるときは、まったく余韻を与えずにすっと暗転し、あるときにはゆっくりと余韻を残す。