勝手にしやがれ
2004/1/31
A Bout de Souffle
1959年,フランス,95分
- 監督
- ジャン=リュック・ゴダール
- 原案
- フランソワ・トリュフォー
- 脚本
- ジャン=リュック・ゴダール
- 撮影
- ラウール・クタール
- 音楽
- マルシャル・ソラル
- 出演
- ジャン=ポール・ベルモンド
- ジーン・セバーグ
- ダニエル・ブーランジェ
- ジャン=ピエール・メルヴィル
- ジャン=リュック・ゴダール
自動車泥棒を家業とするミシェルはいつものように車を盗んで走る途中、白バイに追われ、一人の警官を殺してしまう。そのままパリへと逃げ延びたミシェルはシャンゼリゼで新聞を売るアメリカ人のパトリシアに一緒にローマに行こうという。電話をかけ、金策をしてまわるミシェルだったが警官の手が間近に迫っていた…
ゴダールの初監督作品にしてヌーヴェル・ヴァーグの金字塔といわれる作品。ゴダールの作品としては若さも感じられるし、非常にわかりやすい。なんといってもそのスタイルが斬新であり、そのセンスは今でも格好よく感じられる。
この映画は非常にテキトーであるように見える。それは、この映画が緻密に計算されたシーンの連なりによってできているのではなく、寄せ集めのように断片の積み重ねによってできているからである。そのカットとカットのつなぎ方は、本当にテキトーにつないだようにしか思えない。
しかし、そのテキトーに見えるカッティング、スムーズにつながっているべきところで背景が飛んでいたり、会話でセリフとセリフの間の間が詰められたりという編集の仕方はすべて計算されたものだと思う。
それらのつなぎ方はすべて映画のリズムのためのものである。それも主に音によるリズムである。叙情的に物語を語り、そのために映像とセリフがあり、言葉や映像にならない感情を表現するために音楽を使うというオーソドックスな映画の作り方とはまったく逆に、この映画はまずリズムありきである。だから、セリフの間を詰めて一定のリズムを作り出す。それに合わせて映像も切り刻む。BGMはセリフが聞こえなくなるほどの大きさで鳴らす。そのようにして観客の映画の見方をコントロールする。
それは、映画の登場人物の一人に没入して映画を見るという物語体験型の映画ではなく、映画のリズムに身を任せ、映画全体をひとつのトリップとして体験する映画なのである。だから重要なのはリズムであり、音楽であり、映像である。物語はメロディーでしかなく、その役割は反復と変調である。
だから物語を取り上げてみればたいしたことはない。面白くないとはいわないが、とらえどころがない。断片断片は非常に魅力的であり、そこに表れる言葉には非常に深い意味があるように思える。そのような断片は映画を見終わったとも残る。印象的な映像も頭に残る。だからそれをつむいで物語を再構成してみることはできる。しかしそれは再構成してみたところでフィルム・ノワールの出来損ないのような物語でしかない。ゴダールが冒頭で制作会社を“B級”と揶揄しているように、この映画は物語だけをとってみればそのへんのB級映画とさしてかわりはないのだ。
にもかかわらず、この映画は面白い。この映画が面白いということによって、映画の面白さは物語によるものでは必ずしもないということがわかる。物語によって人を引き込み、楽しませるだけならば映画は娯楽以上のものにはなり得ない。しかしゴダールは映画を観客にとっての内的経験とすることで映画を娯楽以上のものにしたと言える(「娯楽以外のもの」といったほうがいいか…? 別に娯楽が下で上にほかのものがあるとも思わないので)。ゴダールの映画のリズムに身を任せながら、流れ込んでくる映像や言葉を吟味する我々は、それを自分の内にあるさまざまなものと照らし合わせて味わっている。
それは言葉にできない一つの感情なのかもしれない、苛立ち、恐怖、諦念、それらの交じり合った灰色の感情がこの映画からは伝わってくるような気がする。この映画のラスト・シーンはジーン・セバーグのアップである。このとき完全に無音になり、ジーン・セバーグはカメラを(つまり我々を)まっすぐ見つめる。そのとき我々は自分の内側を覗き込まれているように感じ、同時に自分自身の内側の覗き込んでいるような気分になる。そうして自分の内側に湧き出ている感情を取り出してみれば、それがこの映画があなたにもたらした効果なのである。