座頭市あばれ凧
2004/2/15
1964年,日本,82分
- 監督
- 池広一夫
- 原作
- 子母沢寛
- 脚本
- 犬塚稔
- 撮影
- 武村康和
- 音楽
- 池野成
- 出演
- 勝新太郎
- 久保菜穂子
- 渚まゆみ
- 五味龍太郎
- 香川良介
- 中村豊
- 杉田康
- 左ト全
凶状持ちの市は常に命を狙われ、今回は危うく鉄砲で撃たれそうなところを助けられた。その助けた主というのが花火師だと知った市はその花火師を訪ねてゆくが、花火師は実は助けたのはお国という娘だと告げる。そのお国はその土地の親分津向の文吉の娘で、市を快く逗留させるが、そのころ津向は川向こうの竹屋と縄張りを巡っていざこざを抱えていた…
座頭市シリーズの第7作、過去のしがらみから解き放たれて立派な凶状持ちとなった市は泣く子も黙らせる貫禄で仕込み杖を振るう。シリーズの中でもかなりディフォルメされた座頭市像が見られる作品。
座頭市にもすっかりと貫禄が付き、勝新の演技もすっかり板に付き、シリーズとしての落ち着きを見せる。ので、基本的にはシリーズの枠からはみ出ないように、座頭市の魅力を発揮させるというのが基本的な路線である。そして、その路線はしっかりと守り、座頭市はまったくまっすぐな男で、きれいな女の人に弱く、典型的な悪役が登場し、結局市はばったばったと人を斬る。
しかし、そんな典型的な物語の中でも少しずつ工夫がなされている。この作品ではまず敵役の侍として登場する五味龍太郎が、いい意味のライバルになるのではないかという可能性を感じさせる。まあ、これもひとつのパターンではあるが、このパターンが出てくると、座頭市の物語はきゅっと締まる。それからもうひとつ、やくざもんの親分にかなり仁義の通った親分が登場する。
それが香川良介演じる文吉なわけだが、この文吉がこの作品の眼目であると思う。座頭市の面白さの大きな要素のひとつはやはり、市が重んじる仁義である。やくざもんの仁義にすらしたがうことのない半端もんのやくざ(市いわく「やくざの風下にも置けねぇやつら」)を成敗するという展開である。このとき、成敗される悪役はいつも典型的な悪役が登場し、それはそれでいいが、基本的にはそれと敵対する「いい」親分がいなくてはならないのだが、それがなかなか難しい。そんななか、この津向の文吉はなかなか新しいキャラクターである。自分のショバのかたぎのひとたちのために花火を上げたり、安い渡し賃で川を渡したりと、なんとも庶民派なのである。これぞまさに市の精神に一致する親分で、すっかり馬が合うのかと思わせるが、しかし同時に市が持つのと同じ弱さも持っている。それは仁義には逆らえないということであり、それが物語の展開になかなかいいひねりを利かせるのだ。
いくら座頭市といっても、パターンどおりの物語で、ばったばったと人を斬るだけで面白いというわけではない、作品ごとにそれなりの工夫があって、観客をひきつけるのだ。それはパターンを踏襲しながらオリジナリティを出すというなかなか難しい作業ではあるけれど、さまざまな監督を使うことで、バラエティを出していったのが座頭市シリーズの成功のミソであるのだとこの作品を見て思った。
監督ということでいえば、この作品は映像の作り方もちょっと変わっている。いきなり真上からのアングルで始まり、途中でも真上からのアングルでの殺陣が出てくる。この画は座頭市としてはなかなか新鮮なものがある。そして、これはいいのか悪いのかわからないが、まるで恐怖映画のように市の登場が演出されている。どちらかというと静寂の中から登場するという市のイメージを変えてはいるが、はたして効果的なのかどうなのか、わたしはちょっと大げさすぎる気がして笑いそうになってしまったが…