告白的女優論
2004/3/6
1971年,日本,126分
- 監督
- 吉田喜重
- 脚本
- 吉田喜重
- 山田正弘
- 撮影
- 長谷川元吉
- 音楽
- 一柳慧
- 出演
- 浅丘ルリ子
- 岡田茉莉子
- 有馬稲子
- 木村功
- 赤座美代子
- 太地喜和子
- 三國連太郎
- 川津祐介
- 月丘夢路
- 細川俊之
映画で共演することとなった3人の大女優、海堂あき、一森筐子、伊作万紀子。海堂あきは映画の撮影中であるが、その監督の奥さんが監督とあきの浮気を疑ってあきの家を訪ねてくる。一森筐子は精神科医にかかって、夢の話をする。夢の中で別れた夫と家に住み込む女優志望の娘が抱き合ってたと語る彼女の心の中の秘密は。伊作万紀子は友人のスタイリストの京子と故郷の町を訪れる。すでに知る人はいないはずのその町で彼女は京子に自分の過去を語り始める。
3人の女優のそれぞれの過去と現在につながる問題を描く。断片をつなげたような話で、かなり意欲的な作品。好きか嫌いかは好みの別れるところ。
このころ、日本映画は行き詰まっていったのではないかとこの映画を見て思う。この映画は映像も意欲的、映画の構造も意欲的ではある。映像で言えば、極端なローアングルや前景に様々なものを配置する構図、いわゆる前衛的な映像というのはほんの少し出てくるだけだが、全体的にそれまでの映画とは違う、モダニズムをさらに進めた何かを生み出そうという姿勢が感じられる。そのために起用された3人の女優、その3人がそれぞれに登場するところに何かその差というか違いが生み出す面白みを狙っているのだろうと思わせる。そして、小物にも非常に気を使っているように思える。
それはそれで面白い。しかし、それぞれの女優ごとの特色というのがあまりはっきりしない。それぞれにかなりエッジな感じはするものの、映画の中でそれぞれのシリーズに独特なものがない。テーマ的には共通していてもちろんいいのだけれど、わざわざ3人の女優を使うからには、そこに何かしらかの対比があるほうが面白のではないかと思ってしまう。映画そのものは意欲的でありながらそのように思われてしまうというのは、映画としては突き抜けておらず、どうも中途半端な、生みの苦しみというか、完成された新たな形が見えていないのだろうと思えてしまう。
なので、なかなか映画に入っていけない。これはある種の群像劇である。群像劇だからといって、観客が映画に入っていけないというわけではないのだが、この映画はなかなかそこに入り込むのが難しい。それはなぜかと考えれば、全てが謎めいているからかもしれない。それぞれの女優の行動が謎めいている。それ自体はいいのだが、それが向かうべき先、それはつまり解くべき謎は何なのかということがはっきりしない。彼らは何かを隠している、というか言いにくそうにしているが、それが明らかになったろころで何かが浮かび上がってくるのか? と思ってしまう。
それはつまり、いくら謎をかけられても、謎を解く主体がはっきりしないと、どう謎を解いていいのかわからないということである。例えば岡田茉莉子演じる一森筐子の謎を解きたいのは誰なのか、マネージャーの南川なのか、浅丘ルリ子演じる海堂あきの謎を解きたいのは誰なのか(これが一番わからない)、有馬稲子演じる伊作万紀子の謎を解きたいのは誰なのか、恋人だという男なのか、それがそもそもわからず、わかったところで視線は統一されない、断片は断片としてありつづけ、決してひとつの物語になっていかない。
なんとなく浮かび上がってくるいくつかの共通点、女優は嘘つきである、女優もひとりの女である、などということはわかってくるわけだが、果たしてそれが「女優論」なのだろうか? あるいは、女優は嘘つきだから謎は決して解かれないということなのだろうか? 果てしなくなぞばかりが残るこの映画、結局のところ女優とは「謎」であるということなのだろうか?