戦場のピアニスト
2004/3/7
The Pianist
2002年,フランス=ドイツ=イギリス=ポーランド,126分
- 監督
- ロマン・ポランスキー
- 原作
- ウワディスワフ・シュピルマン
- 脚本
- ロナルド・ハーウッド
- ヘニング・モルフェンター
- 撮影
- パヴェル・エデルマン
- 音楽
- ヴォイチェフ・キラール
- 出演
- エイドリアン・ブロディ
- エミリア・フォックス
- ミハウ・ジェブロフスキー
- エド・ストッパード
- モーリン・リップマン
- フランク・フィンレイ
1939年、ポーランド、ワルシャワ。ポーランド人たちの抵抗むなしく、ワルシャワはナチス・ドイツに占領される。ピアニストのウワディクはラジオ局でピアノの演奏中に爆撃にあい、命からがら家へと帰る。そしてユダヤ人である彼らの家族は所持金を制限され、さらには狭苦しいゲットーに押し込まれる。ゲットーの生活は苦しかったが、ウワディクはゲットー内のレストランでピアノを弾き、何とか生活していた。しかし、ゲットーが閉鎖され、強制的に移送されるという噂がゲットー内に流れはじめる…
自身もゲットーで過ごした経験のあるロマン・ポランスキー監督が、実在のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの自伝を映画化。悲惨な描写は抑え、一芸術家の見た悲劇の全貌を淡々と描く姿勢が非常に誠実に感じられる。カンヌ映画祭でパルムドールを、アカデミー賞では監督賞・主演男優賞・脚色賞を獲得した。
ホロコーストを映画に描くのは難しい。決して少なくはないが、正面から捉えるにはあまりに悲惨すぎるがゆえに、誰しもが側面から側面から描こうとしてしまう。古くは『アンネの日記』なんかが間接的に描いた最たるものだろう。そしてもちろん、最も知られているのは『シンドラーのリスト』ということになるのだが、それも「ユダヤ人を救ったドイツ人」という特異な例から描写する。ドキュメンタリーでも『夜と霧』はアウシュビッツの跡地や当時のスチル写真などを用いて、客観的ではあるが間接的な描き方をした。
それらに異議を唱えるかのように圧倒的に直接的な描き方をしたのが『SHOAH』なのだが、この9時間半に渡る作品も果たしてどれだけ直接的に、悲惨さを表現できたのだろうか? やはり、ホロコーストは筆舌に尽くしがたく、映画で再現できるような出来事ではなかったというのが正直な感想である。
ロマン・ポランスキーは自身がそのホロコーストの一端を体験したわけで、その表現の不可能性はすっかり承知した上で、この『戦場のピアニスト』を撮った。そのために、客観的な表現をすることはせず、一人のピアニストの「目」に完全に頼った作品にした。
完全に主人公のウワディクが見た世界だけ。ドイツ側からの視点をとらないことはもちろん、戦争の状況の解説をすることもなく、それぞれの事件が意味することを説明することもしない。ウワディクの前からいなくなってしまった人たちがどうなってしまったのかを語ることもない。
そのように徹底的に視線を限定されたところでは、これはひとつの物語にならざるを得ない。完全なるひとり語り、それはホロコーストというひとつの大きな物語を語っているようでいながら、実はウワディクというひとりの人間のおよそ5年間の出来事を綴っているに過ぎない。
実はそれはわれわれにとっての5年間となんら変わりがない。そこに戦争とホロコーストというあまりに悲惨な出来事が起こったというだけで、基本的には同じ5年間なのである。
私が敢えてそのようにいうのは、そのようにいうことで、この映画で浮き彫りにされる命に肉薄した人間性というものを自分自身にひきつけて考えることができるからだ。人間は飢えと恐怖に弱い。人間は極限的に飢えたらなんでもする。そして極限的な恐怖はたやすく人をコントロールすることができる。
大きな物語の全体を語ることを避け、ひとりの人間の小さな物語を語ったことによって、この映画は見るものに非常に近いものになったのだと思う。想像を絶するくらい悲惨な出来事を、そのまま受け入れられないくらい悲惨なものとして描くのでもなく、悲惨さを薄めて想像の範囲内に納めるのでもなく、全体的にぼかしてなんとなくの感覚にしてしまうのでもない。ひとりの人間にとっては全的である経験をそのまま描く。もちろん、その恐怖を全て表現することなどできないが、手の届きそうなところにその恐怖の塊がある感じがする。もちろん、そこに手を伸ばすことはしないわけだが。
少々気になるのは、映画の後半に多用されるフェードアウトだ。別にフェードアウト自体がよくないというわけではないが、これだけ多用されると、なんとなく安っぽく、TVの2時間ドラマを見ているような感覚に襲われ、つぎにCMが来るんじゃないかなどと思ってしまう。観客がウワディクの視線にすっかり収まり、一体化しているところにこのフェードアウトはどうも興ざめの気がする。
簡単にカットアウトするのも、確かに味気ない気がするが、そこに間を作って何かを考えさせようというのなら、風景だけのインサートショットや単純な暗転によったほうが映画の流れにあっていたのではないかと思う。
私は、このフェードアウトによってなんだか映画と自分の間に断絶があるような気がしてしまい、完全には乗り切れなかった。
まあ、とは言え、そんな些細な部分をあげつらうよりも、映画について考えたほうがいいわけで、見終わったあとでもじっくりと考えることができる。ウワディクが数年ぶりにピアノに触れる瞬間のその間の、その手の表情の、その感じが呼び起こす感動を反芻しながら、映画とは歴史を想起させるひとつの有効な手段なのだと思ったりもする。
ホロコーストについては、数年に一度映画が作られ、人々はその悲惨な出来事を思い出す。それは未来に何らかのいい影響を及ぼしているように思える。
それがほかの悲惨な出来事(イラク、アフガニスタン、ユーゴスラビア、ベトナム、チェチェン、南米、アフリカ、南京、などなど)についても繰り返し行われるといいと切に思う。