ホテル・ハイビスカス
2004/3/11
2002年,日本,92分
- 監督
- 中江裕司
- 原作
- 仲宗根みいこ
- 脚本
- 中江裕司
- 中江素子
- 撮影
- 高間賢治
- 音楽
- 磯田健一郎
- 出演
- 蔵下穂波
- 余貴美子
- 照屋政雄
- 平良とみ
- ネスミス
- 亀島奈津樹
- 登川誠仁
- 大城美佐子
沖縄のとある場所、小学生の美恵子が住む家はホテル・ハイビスカス。ぼろぼろで客を泊める部屋もひとつしかないが、「古くても人は上等、インタァナソナル・ファミリィ・ホテル」とのたまう。その美恵子が道に行き倒れていたヤマトンチュの能登島をホテルに連れて行き、能登島はハイビスカスに長期滞在することになる…
『ナビィの恋』の中江裕司監督が、今度も沖縄を舞台として描くヒューマン・コメディ、短めの断章がいくつか組み合わせた形になっているが、なんといっても出てくるキャラクターの個性が強烈で、最高に面白い。
突然やってくるヤマトンチュ、となると、彼を中心に話が展開していくのかと予感させるが、まったくそんなことはない。映画は美恵子を中心としてひたすらその家族の物語に終始する。そして、そこではわれわれの(本土の都市生活者の)常識から考えるとまったくもって奇妙な出来事や好奇の目で見てしまうような現実が当たり前のようにそこにある。
まあ、一番わかりやすい例は、母ちゃんと父ちゃんがいて、にぃにぃとねぇねぇがいるのだが、それぞれ父親は違い、ケンジにぃにぃは黒人の父親を、サチコねぇねぇは白人の父親を持つ。美恵子は父ちゃんの子供なんだろうか? なんていう、ちょっと聞くと悲劇にもなりそうな境遇がまったく当たり前のこととして物語の前提となる。これがまずこの映画のとても面白ところだ。
それは、当の当事者である美恵子と家族はそのことをまったくなんとも思っていないのだ。それは単純に現実であって、出来事のひとつでしかない。
なぜ、そのようになるのか、それは彼らがそんな事々を当たり前と思いながら生活するその底には、寛容さと思いやりと分け隔てのなさがあるからなのだと思う。いろいろな出来事を大したことではないと考えて受け入れてしまう。相手のことを思って、その相手がやったことを尊重する、そしてその相手となる人に上とか下とかいう関係性を押し付けないのだ。
例えば、映画の序盤に登場する級長の言葉遣いや、映画の途中で美恵子がバスの運転手に「わかりました」と突然に敬語でいうことがなぜかおかしいのは、それがこの映画が作り上げた分け隔てのない、上下のない空間を裏切る行動であるからだ。その言葉遣いはその場にそぐわない。われわれの世界ならふさわしい言葉遣いであるはずなのに。
そんな、小さな別世界をみて、われわれは和み、癒される。それは、そんな寛容さや思いやりや分け隔てのなさこそがわれわれに欠けているものだからだ。欠けているけれど、求めている。そのものがそこにある。
そしてしかも、その小さな別世界に住む人々は、わたしたちとちっとも変わらない人々なのだ。われわれにはない素質を持っているわけだけれど、それでも物の見方や感じ方はわれわれと変わらないのだと感じられる。たとえば、ケンジにぃにぃが父親の前を何もいわずには知りぬける時、その時ケンジにぃにぃが抱える言葉にならない気持ちを私たちは理解できる。というより、同じ気持ちを自分の心の中にわき起こさせることができる(言葉にはならないけれど)。
そして、キジムナーとかご先祖様とかいう、いわゆる超自然的な出来事に対するスタンスの取り方も、すごく納得できる。そしてそれは決して押し付けがましくない。さりげなく、しかし着実に見ているものの心に染み渡る。おかしいけれど、なかなか深い。
それは、一種の完成された世界。物語とかネタとかキャラクターとか、そういうことではなく、そこに出現したひとつの世界が面白い。あ~、沖縄いきてぇ!