赤目四十八瀧心中未遂
2004/3/12
2003年,日本,159分
- 監督
- 荒戸源次郎
- 原作
- 車谷長吉
- 脚本
- 鈴木棟也
- 撮影
- 笠松則通
- 音楽
- 千野秀一
- 出演
- 大西滝二郎
- 寺島しのぶ
- 大楠道代
- 内田裕也
- 新井浩文
- 大森南朋
- 赤井英和
流れ流れて尼崎にやってきた生島与一はモツ焼き屋の主人・勢子に雇われ、古アパートでもつ焼きの串刺しをすることになった。そのアパートには彫師の彫眉とその情婦である綾を初めとして奇怪な人たちが住み着いていた。そんな人生のどん詰まりで綾に心引かれながら、どこか充実感を得ていた生島だったが、勢子には繰り返し「お前はここでは生きて行けん」と言われる…
プロデューサとして阪本順治作品など数多くの作品を製作してきた荒戸源次郎の監督第2作。寺島しのぶと大西滝二郎という映画初出演の二人を起用し、独特の世界を描き出した「アート」な作品。
なんとなく謎めいた雰囲気を醸し出す。
それにはいくつかの理由がある。ひとつは非常に画面にこだわりがある。映画の最初のショットは赤い下敷きによって作られる赤い影である。そして、その下敷きの持ち主の少年が滝にたどり着き、映画が始まる。その滝もまたビジュアルに非常にこだわる。そしてそれ以降もとにかく画の美しさにこだわる。そういう映画はえてして「わかりにくい」という感想をもたれがちである。その映像がプロットにどのように寄与しているのかがわからない。というのがその理由ということになる。
さらに理由があるとすれば、セリフが少ないということも考えられるだろう。この映画の登場人物たちはほとんどが無口な人たちである。関西、しかも尼崎なんていったら、誰もがべらべら喋り捲っているんだろうというイメージだが、この映画に出てくる人たちはほとんどしゃべらない。それは主によそ者である生島に向けた攻撃的なよそよそしさから来ているのだが、とにかくしゃべらないので、その人がいったいどのような人間なのかがいつになってもわからないということになる。
そして、映画の冒頭で登場する少年が何者で、どうなったのかはそこでは明かされず、しかもそれは果てしなく言及されない(推測はたやすくできるが)。
などなどと、謎めいた要素がこの映画にはいろいろ含まれている。
が、それがそのままこの映画には謎がたくさんあり、難解な映画であるということにはならない。この映画のように謎めいた要素がたくさんあり、しかも画にこだわったりする映画は「アート系」と考えられて、よくわからないけど面白い、ということになったりする。この映画もそんなスノッブな「アート系」のにおいがプンプンする。
しかし、この映画は幸か不幸かそんな「アート系」の範疇にはぴたりとは収まらない。それはいわゆる「アート系」の映画がとにかく「美しさ」だか「格好よさ」だか「センスのよさ」だかを、自分なりのセンスで展開していって観客をおいていってしまうのに対し、この映画は観客に優しすぎるのだ。
いわゆる「アート系」の映画のおもしろい物というのは、その「センス」がずば抜けていて見るものを圧倒するか(その場合は誰の目から見てもすごい映画ということになる)、見る人のセンスと一致するセンスで映画が撮られている場合である(このときは評価は分かれる)。それは、映画がわかりやすくあるべきだという考えを捨て去り、完全にひとつの芸術作品として世に問う姿勢なのである。
これに対してこの映画は、「アート的」でありたいとは思っているが、映画としての面白さ、わかりやすくしかも面白い物語をもつといういわゆる映画の面白さも捨てようとしない。なので「アート系」の映画と比べるとついつい説明過多になってしまうということになる。
これは映画としてなかなか難しい。理解するのが難しいというのではなく、果たしてどのように見ればいいのか難しいということだが、まっとうな見方としてはわかりやすく組み立てられたプロットを追いながら、画面の美しさも楽しめばいいということになるが、その画面の美しさを生み出さんがために判りやすさの中にわかりにくさが入り込む。説明過多でわかり安すぎるところもあれば、説明不足でわかりにくいところもある。この辺りのバランスが微妙なのだ。
そのような「見方」を意識させてしまうところにこの映画の欠点があるのだと思う。3時間もの長さにしたからには、その長さに納得がいく統一感がほしい。それがこの映画にはない。ただ、撮りたいものを撮っていったら3時間になってしまったけれど、プロットは2時間の映画と同じ。それは間延びしたプロットのその間に映像を詰め込んだという印象を与える。その結果全体が薄められてしまって今ひとつ印象に残らない。そんな映画になってしまった。
しかし、出演者たちはとてもいい。この映画で頭に残るのは登場人物たちの目、目、目である。とにかくカメラをにらみつける。その視線だけは頭に残る。そしてそのようにカメラを正面から見据えるという難しいことをやってのけるだけの力がこの映画の出演者たちにはある。その「よさ」もまた、物語と映像と役者とに印象を分散させてしまった原因なのかもしれない。