青春残酷物語
2004/3/13
1960年,日本,96分
- 監督
- 大島渚
- 脚本
- 大島渚
- 撮影
- 川又昴
- 音楽
- 真鍋理一郎
- 出演
- 桑野みゆき
- 川津祐介
- 久我美子
- 渡辺文雄
- 浜村純
家まで車で送ってくれるおじさんをつかまえた女の子ふたり組み、ひとりが降り、ひとりになったところでそのおじさんはその真琴をホテルに連れ込もうとする。真琴が抵抗しているところに学生がやってきてそのおじさんを殴り倒した。結果的に金を巻き上げることになったその学生・藤井と真琴は翌日、その金で遊ぶことに。そして藤井は真琴をものにしようとするのだが。
大島渚の初期の作品のひとつ。いわゆるプログラム・ピクチャアの風情だが、学生運動の雰囲気と桑野みゆきの存在感が力強く訴えかける作品。
この時代(1960年)の若者というと、学生運動に明け暮れるか、野放図に遊びまわるという印象が強い。そして、この映画の主人公の真琴も、野放図に遊びまわるひとりである藤井に惹かれることで、その仲間に入っていく。となると、待っているのは転落の道、『俺たちに明日はない』ではないけれど、遊びまわった末に待っているのは悲劇的で刹那的な人生の結末ということになりそうである。
しかし、この映画はなかなかそうならない。悲劇的なところに落ち込みそうになって踏みとどまる、そのことの繰り返しなのである。例えば、真琴はチンピラに売りとばされそうになるのだが、そうはならない。
それは彼らが実際は決して野放図に遊びまわっている若者ではないというところから来る。かといって学生運動に参加しているわけでもなく、いわゆる優等生でも決してない。
その時代の若者は、大人からは学生運動に参加するような若者と、野放図に遊びまわる若者という2つのタイプに類型化されてしまうけれど、実際はそのどちらにも属さない若者が大部分だった(とはいわないまでも数多くいた)のだろうと思う。そのような若者たちは宙ぶらりんの状態に置かれ、身の置き所がなかった。底で彼らはひたすら苛立っていた。この映画で描かれているのはそんな若者なのだ。
宙ぶらりんにしては劇的過ぎる気もするが、それはそのような宙ぶらりんな若者が感じている苛立ちを極限化したのがこの二人であるからだろう。2人はとにかく苛立っている。周りの全てに苛立っている。
そして観客もその苛立ちを共有するわけだが、観客の苛立ちはそれにとどまらず、その2人の行動にも向けられる。その時、映画を見つめる観客も突破口を失ってしまう。苛立ちに取り囲まれる閉塞感を感じる。
そして桑野みゆきはその苛立ちと閉塞感を体全体で表現している。彼女は男に振り回されて、若者らしい破滅の道に落ち込んで行っているように見える。しかし実は、彼女は求めてそうなったのだと思う。といっても破滅の道を選んだというわけではなく、彼女は宙ぶらりんの状態に閉塞感を感じ、その壁を打ち破らんがためにいろいろなことに挑戦するのだ。そのためには危険に飛び込んで、その危険を乗り越えることが必要だと考えているのだ。彼女にとって現実とは四方から壁が迫ってくる部屋のようなもので、その壁を打ち破らない限り押しつぶされて死んでしまうものなのだと思う。
だから彼女は周囲に反対されても、自分を傷つけることになっても、挑戦する。そのことを恐れているにもかかわらず、敢えてその中に入っていく。彼女がそのようにして求めているのは「自由」である。彼女は自分の存在をかけて自由を求めているからモノ化されるのを極端に嫌う。
そしてこの映画はそのようなことを言葉で説明することはしない。とにかく桑野みゆきが体でそれを表現するのだ。それがすばらしい。
桑野みゆきはスターと言われるような女優ではないし、印象としては巨匠の作品で脇役、よくても準主役を演じているというものでしかない。しかしこの作品の彼女はすばらしい。役柄と同様、自分の全存在をかけているかのような演技なのである。この一本の作品で彼女は映画史に名を残したと言っても過言ではないだろう。ひとりの女優が輝きを見せるたった一本の映画。そんな映画を見つけると、すごく嬉しい。