東京の宿
2004/3/27
1935年,日本,80分
- 監督
- 小津安二郎
- 原作
- ウィンゼアト・モネ
- 脚本
- 池田忠雄
- 荒田正男
- 撮影
- 茂原英朗
- 音楽
- 堀内敬三
- 出演
- 坂本武
- 突貫小僧(青木富夫)
- 末松孝行
- 岡田嘉子
- 飯田蝶子
- 小嶋和子
- 笠智衆
木賃宿に床を借り、ふたりの息子を連れて仕事を捜し歩く喜八だったが、なかなか仕事が見つからず、手持ちの金もそこをついてきた。そんな中、上の息子の善公は野良犬を捕まえて得たお金で帽子を買ってしまう始末。その木賃宿には娘を連れた妙齢の女性も泊まっていて、挨拶をするようになったが、喜八のほうはいよいよ金も底をつき、最後の晩飯をかっ込むことに…
サイレント期の小津映画のひとつのパターン、坂本武と突貫小僧と飯田蝶子。このパターンは大体が、貧しいながらも、少々笑えてしんみりするそんな小噺になっているが、この映画のその例にもれない。成熟したサイレントの技法とよく練られた叙情的なドラマが面白い。
戦前の小津の映画に登場する人たちは貧しい。子役として多くの作品に出演している突貫小僧こと青木富夫はその顔や姿かたちや行動のすべてから貧しさがにじみ出ているような子供だ。しかし、そんな貧しさの中でも突貫小僧は常に元気で屈託なく、とにかく明るく生きている。それが貧しい人たちを描いても決して悲惨にならないポイントのひとつだと思う。
そしてこの映画で突貫小僧は少々大人になり、弟もいて、仕事が見つからずとにかく金のない父親を励まそうといろいろとがんばる。いかにも子供然とした突貫小僧とはちょっと違っているけれど、それでもやはり子供らしさも持ち合わせていて、せっかく稼いだお金をどうでもいいような帽子につぎ込んでしまったりするわけだけれど、それが何か貧しくても心までは貧しくならない秘訣であるような気もする。
貧しいからといって、あくせくして、お金のために必死になって、食うので精一杯で、1円でも1銭でも稼ごうと人間味を失ってしまうのではなくて、貧しくてお金がなくて、食うに困っていてもどこかで余裕がある、そんな生き方をこの親子はしている。「心の豊かさ」とまではいわないにしても、貧乏であるがゆえに金に人間性までも奪われてしまう、そんな時代には陥らないのが小津映画の登場人物たちである。
今から見ると、牧歌的とも言えるのかもしれないが、その牧歌的とも言える面こそが現代に足りないものであるとも思う。
とにかくこの時代には社会に「貧乏」があふれていたのだと思う。そして映画とはそんな貧乏な人たちの味方であり、貧乏な人たちでも楽しむことができた娯楽であった(といっても、宿無しのこの親子のような人たちはさすがに見ることはできないが)のだと思う。小津はそんな人たちをそのままスクリーンに登場させて、それを暖かく包み込む。貧しい人たちに「豊かさ」をプレゼントする。そのようなものとしてこの映画はあったのではないかと思う。
それは別に社会的な意義とか、社会貢献をしようという意図があったとかいうことではなく、映画が社会と密接に結びつくため、それがもっとも有効な方法だったということだと思う。小津は社会の観察者であり、それを映画に描くことで社会と結びつき、その観察の中で見つけた何かを社会にフィードバックしていた。成長していく突貫小僧の姿を見るにつけ、そんなことを思う。