乾いた花
2004/4/7
1961年,日本,96分
- 監督
- 篠田正浩
- 原作
- 石原慎太郎
- 脚本
- 馬場当
- 篠田正浩
- 撮影
- 小杉正雄
- 音楽
- 武満徹
- 出演
- 池部良
- 加賀まりこ
- 藤木孝
- 宮口精二
- 原知佐子
刑期を終えて3年ぶりに娑婆へ戻ってきた村木は組の賭場で大胆に大金を張る謎めいた少女に出会う。その少女・冴子は素性は明らかではないが、賭場でも評判だった。村木は賭場近くの屋台で偶然冴子に出会い、「もう少し大きな勝負ができるところはないか」と頼まれる。
石原慎太郎の原作を篠田正浩が映画化。やくざの世界に紛れ込んだ一人の少女を加賀まりこが見事に演じ、面白い世界観を作り出している。
まずこの物語は池部良演じる村木の物語である。一人のやくざ者が刑務所から出てきて組に戻り、少々変化のあった娑婆で経験する出来事。となると、仁義系の話になるのが普通だが、この映画はそうではない。というか、基本的には任侠の世界を描いた映画であるのに、主題はそこにはないのだ。任侠もののふりをした純愛映画、あるいは任侠の世界は物語を伝えるためのメディアに過ぎないというべきか。
基本的には任侠話なので、周りの者(子分たち、賭場で博打をするおっさんたち)はとりあえず片意地張って生きている。世の中というものが何がしかのものであるように振舞っている。しかし、主人公となる村木にとってはそんな世界などどうというものでもない。ただ生きて、博打をして、たまに女を抱いて、ただそれだけの世界にいったい何の意味があるのか。
その村木の諦念というか、超然とした態度は一匹狼然としたように映り、やくざものにとっては格好いいものに映る。だから、村木を殺しに来たはずの次郎というチンピラも村木になついてしまう。村木はそんなものも適当にあしらう。その姿がまた格好いいとなるわけだが、村木にとっては義理とか人情とかいったかろうじて彼を世の中につなぎとめている紐帯を確認する作業に過ぎない。
そんな中現れる冴子が彼の心に残ったのは、彼女もまたそのような諦念を抱えているように見えたからだ。親子ほども歳の離れた二人は世の中への諦念というもので結ばれる。
冴子は「スリル」によって何とか世の中とつながっている。だからスリルを求め続け、その行動はエスカレートしていかざるを得ない。その行為は大胆で、肝が据わっているように見えるが、その大胆さのもとにあるものは諦めでしかない。 そんな冴子に村木は何を見出したのか。彼は人を殺したときにある種の「実感」を得たといっていた。
彼らが抱える諦念は、彼らを閉塞感で取り囲む。どこを向いてもどうにもつまらない世の中しかなく、そこから抜け出す道はないという閉塞感。村木は殺しをしたときに、そこを突破する何かを見つけ出したのかもしれない。それは何かをしているという充実感とも言い換えることができるのかもしれない。
冴子もまた、大金を博打に投じることで「何かをしている」という充実感を得ようとしていた。だがそれは、あくまでも金にまつわる「何か」に過ぎない。金が全てとも言っていい世の中ではそれは何がしかの行為であるように見えるが、金に対しても諦念を持つ彼らはそんなことをやってみたところでそれが「何か」になることはない。そこには生の幻覚は生まれ得ないのだ。
そして、そのような閉塞感に付きまとわれたまま、物語は進んでいく。冴子は村木が閉塞感を打ち破ってくれる「何か」を与えてはくれないことを知って去っていく。
しかし村木は冴子にその「何か」を見続けている。だから、もう一度殺しをしようと思い切る。その殺しは表面上は仁義のため、やくざものとして仁義を果たすための行為であるのだが、村木にとっては彼女のための行為なのだ。村木自身が意識しているかどうかはわからないが、それは献身的な「愛」の行為なのだ。だから、村木は殺しの前に冴子に会う必要があった。そして冴子も何かを予感していた。
映画の結末は謎を残しているように見える。しかし、その謎なるものはあくまで表面上の、2人が完全に見限った世の中にとっての謎でしかない。村木にとっては謎などもう残っておらず、そこには愛だけがあったのだ。