黒蜥蜴
2004/4/9
1962年,日本,102分
- 監督
- 井上梅次
- 原作
- 江戸川乱歩
- 三島由紀夫
- 脚本
- 新藤兼人
- 撮影
- 中川芳久
- 音楽
- 黛敏郎
- 出演
- 京マチ子
- 大木実
- 川口浩
- 叶順子
- 三島雅夫
大阪のホテルで見合いをした早苗には最近誘拐を予告する脅迫文が届いていた。父親で宝石商の岩瀬はその警護のため名探偵・明智小五郎を雇っていた。しかし、知人の緑川夫人に早苗を任せ、明智とバーで酒を飲んでいる間に、緑川夫人こと黒蜥蜴が早苗の誘拐計画を実行に移した!
江戸川乱歩の原作を三島由紀夫が戯曲化し、それを新藤兼人が脚本化したというオールスターな脚本を京マチ子でなんとミュージカル風に仕上げてしまったという怪作。サスペンスとしてのスリルも、B級映画としてのおかしさも、どこを切っても一級品。これぞ最高の娯楽映画!
原作は江戸川乱歩の有名な作品『黒蜥蜴』である。だから、まずもってストーリーが面白くないはずがない。ので、何もしなくても面白い映画が出来上がる。そして、それを三島由紀夫が戯曲化する。これはかなりひねりが加わっていく。そして新藤兼人が脚本を書く。もうなんだかわからない。そして、なぜか出来上がったのがミュージカルなのだ。このわけのわからない出来上がり方だけでもものすごいのだが、映画はさらにもっとすごい。
映画の始まり方は至極まっとうなミステリーである。緑川夫人なるマダムに扮装した女賊黒蜥蜴が宝石商・岩瀬の持つダイヤモンド“エジプトの涙”を手に入れるために娘を誘拐し、名探偵・明智小五郎に挑戦するのだ。となれば、明智小五郎と少年探偵団の活躍で事件は見事に解決! となりそうなものだが、この話はちと違う。原作からちと違う。黒蜥蜴という敵役のキャラクターが濃すぎて明智小五郎を食ってしまうのだ。そしてその黒蜥蜴を京マチ子は見事に演じる。ものすごく濃いキャラクターをものすごく濃く演じる。大阪松竹劇団出身だけあって、ミュージカルはお手の物。しかし、顔も体も動きも濃いから、印象も強烈である。
映画はそんな京マチ子を中心に展開される。人間とは思えないほど大仰な、どう考えてもおかしいキャラクターなのに、京マチ子が演じると堂に入った感じがし、まったく違和感がない(5年後に同じ原作で同じ黒蜥蜴を演じた丸山明弘には少し荷が重かった)。だから、こんな無理な設定の映画でもすっと映画の世界に入っていってしまう。あまり無茶な設定、あまりに安っぽい作り物のセット、あまりにとっぴな展開にも、違和感を感じつつも抵抗感は覚えることなくぐんぐん映画の世界に入っていってしまう。これぞまさに黒蜥蜴マジック、黒蜥蜴の手にかかれば目も曇る、死人だって生き返る(かも)。
B級映画もここまで突き抜ければ傑作になる。タランティーノを持ち出すまでもなく、日本のB級映画には世界レベルの作品が数多く埋もれているのだ。この面白さは、具体的に何が面白いというのではない。このあまりにありえない世界、それを臆面もなく実現してしまい、しかもなぜかその世界に浸れてしまう。そんなマジックのような不思議さ。それがB級映画の名作の面白さである。えらそうに、いろいろな解釈をしてみても、それは落語を解説しているようなもので、まったく面白くない。面白いものが解釈すればするほど面白くなくなってしまう。それはいわゆる大衆芸能一般に言えることなのかもしれない。日本のB級映画は1960年代から70年代という時期に、完全に大衆芸能(あるいはポピュラー・カルチャー)のひとつとなり、それはもう解説の仕様もないほど当たり前のものとなったのだと思う。落語がなぜ面白いのか(面白かったのか)、漫才がなぜ面白いのか(面白かったのか)、「はねるのトビラ」がなぜ面白いのか。それを分析しようとするとき、それはもう面白くなくなってしまう。
タランティーノがすごいのは、自分の好きなそんなB級映画を解釈し、新たな語りとして構築しようとするのではなく、ただただ面白いものをそのまま模倣して、つなぎ合わせる。そこには分析/解釈という段階はなく、コピー、ミミック、リミックスが存在するだけなのだ。だからこの映画のような爆発的な面白さがすっと横滑りして映画の中にはまり込む。決して分析してはいけない。タランティーノはそのことを知っているのだと思う。
だから、この映画も見ながら分析しようなどと思ってはいけない。まあ、分析しようと思っても、見ているうちにすっかり世界にはまり込んで、分析しようと思っていたことを忘れてしまうから、分析のしようもないと思いますが。