卍(まんじ)
2004/4/10
1961年,日本,102分
- 監督
- 増村保造
- 原作
- 谷崎潤一郎
- 脚本
- 新藤兼人
- 撮影
- 小林節夫
- 音楽
- 山中正
- 出演
- 若尾文子
- 岸田今日子
- 船越英二
- 川津祐介
- 山茶花究
弁護士夫人である園子は美術学校に通うが、そこで同じ学校に通う社長令嬢の光子によく似た絵を描き、あらぬ噂を立てられる。その噂から近づきになった園子と光子は親しくなり、噂は本当になっていく。その子の夫・孝太郎は徐に変化していく妻に不信感を抱き、その関係を問い詰めるが…
谷崎潤一郎の原作を増村保造が映画化。若尾文子と岸田今日子という抜群のキャスティングで谷崎の世界を見事に映像化した。とにかくねっとりとした質感が谷崎らしく、増村らしく、若尾文子らしい。
若尾文子はその登場からあまりに作り物じみている。その首のもたげ方、化粧室で後ろを振り向くその動き、どれを取ってもあまりにわざとらしく、「演じている」ことを表に出しすぎているように見える。しかし、それは若尾文子の演技がオーバーであるというわけではなく、若尾文子演じる徳光光子がそのようなキャラクターとして表現されているのだ。
常に演技している女、それが光子のキャラクターなのである。しかし、そのことに最初はなかなか気づかない。ただ大げさなのか、それともだまそうとして演技をしているのか。岸田今日子演じる園子はそんな光子にずぶずぶとはまっていくわけだが、彼女はそれを演技とは思っていなかったわけだ。
それは結局演技だったのだろうか? 光子がこの大げさな芝居じみた演技をやめ、素をのぞかせるシーンが1つだけある。それは川津祐介演じる綿貫に誓約書に判を押せと迫られるシーンである。ここで光子はすでに綿貫に愛想を尽かしている。
このことを考えると、光子の演技とは自分の好きな人たちに向けた、自己表現であるのかもしれないと思う。自分が好きな人たちを自分のところに引きとどめておくための演技、だからすでに愛想を尽かしてどうでもよくなった綿貫に対しては演技をする必要がなくなってしまったということになる。
そう考えると、すっきりする。園子が光子について「自分の崇拝者を増やそうとしているだけなのかしら?」と疑問を投げかけるが、その疑問は実は光子の真を突いているのだ。光子は闇雲に崇拝者を増やそうとしているわけではないが、自分の好きな人たちを自分の元にとどめようとすることに必死である。それが「自分の崇拝者を増やそうとしている」と映るのは至極当然のことであるといえる。
つまり、若尾文子が常に芝居じみた演技をしているのは、光子が常に演じているからである。この映画の物語は園子が見聞きしたことだけで構成しているわけだから、園子を自分のもとに留めようとしている光子は常に演技をしているはずだ。光子は嘘をつこうと思ってんぎをしているわけではなく、園子に好かれる自分を常に演じているだけなのだ。
だから、本当に嘘をつくために演技をするとき、その演技はあまりに芝居じみている。それは嘘だとわかる嘘をつくことで園子の心を再び掴むことができると知っているからであり、わかりやすく演技をし、園子にその嘘を見破らせることによって園子を自分のほうに振り向かせるのだ。
人はみないつも、多かれ少なかれそのようにして演技をしながら生きている。相手が望む自分を演じ、自分が望む自分を演じている。そのようなときに、どこまでが演技でどこまでが素の自分であるのかは、判然としなくなる。映画はわかりやすく極端を見せるけれど、それを自分の日常にひきつけてみると、それは日常と連続的な、ありきたりのものの延長であるということに気づいたりもする。