乱れる
2004/4/13
1964年,日本,98分
- 監督
- 成瀬巳喜男
- 脚本
- 藤本真澄
- 成瀬巳喜男
- 撮影
- 安本淳
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 高峰秀子
- 加山雄三
- 三益愛子
- 草笛光子
- 白川由美
- 藤木悠
- 浜美枝
礼子は藤田酒店を一人で切り盛りしているが、実は戦死してしまった長男の嫁。跡継ぎであるはずの義理の弟の幸司は遊んでばかりで、またも喧嘩で警察にしょっ引かれた。礼子はそんな幸司を温かく見守りながら、日々暮らしていた。しかし、スーパーマーケットの安売りで店はピンチとなり、礼子のほうは義母に再婚を勧められ、何かが変わろうとしているように見えた。
日本映画史に残る名コンビである成瀬巳喜男と高峰秀子、14本目となるこの作品はまったく隙のない完璧な仕上がりで、この名コンビによる作品群の頂点ということができるだろう。
この映画の高峰秀子は銀幕の上に住んでいて、その外には存在しないかのようである。銀幕の上で真実の涙を流し、疲れ果て、崩れ落ちる。といっても、物語上の話ではない。この銀幕の上には高峰秀子という女優が住み、嘘ではない真実の姿をさらしているように見えるということだ。幸薄く、冷たくもあり、消え入りそうでもあるのだが、彼女は確実に活きている。存在することの苦しみに耐えながら、ただただ活きているのだ。強いのか、脆いのか、冷たいのか、熱いのか。この世のすべての人はそのすべてをもっているに違いないが、果たしてどれくらいの役者がそのすべてを銀幕の上に表現できただろうか。
ずっと表面上の強さと冷たさを保っていた礼子がひとすじの涙でその脆さと熱さをほとばしらせるとき、それを見るわれわれは感動するしかない。それは、「隠されてきた一面が見えた」などという陳腐な言い回しでは到底つかむことのできない感覚である。頬を伝うかすかな涙を目にしたとき、何か全的なものの存在に触れてしまったかのような戦慄を感じた。
その言葉にならない感覚が戦慄を生み、その感覚が何であるかをじっくりと考えていると、なぜだか涙がこみ上げてくる。それは確かに「感動」という言葉でくくれる何かではあるのだけれど、それ以上の説明を言葉ですることは難しい。
説明できないという点では礼子も同じである。さまざまな言葉で説明しようとし、その言葉で行動を束縛しようとするが、その言葉は完全ではなく、言葉を発したことによって行動できなくなってしまう。そして相手に理解してもらえなかったという気持ちだけが残ってしまう…
はたで見ていると、加山雄三はなんだかマヌケに見えてくるが、そのマヌケさというのがここでは非常に重要なのだと思う。礼子が懸命に言葉で伝えようとすることを幸司はまったく理解できない。それは幸司がマヌケだからなのである。しかし、ここで幸司はマヌケでしかありえない。それは幸司個人の問題ではなく、このようなときに(他人の気持ちを推し量ろうとするときに)人は根源的にマヌケでしかありえないからだ。言葉によって他人の感じていることがわかったら、その人はおそらく人ではない。だから、幸司はマヌケでいいのだ。
ただ、面白いのは、そのように素直にマヌケであることを演じることは、普通なら難しいことであると思うからだ。加山雄三はその表現することの難しそうなマヌケさというものを非常にうまく表現している。
人は根源的にマヌケなのだから、素を出せば簡単にマヌケさを表現できるはずである。しかし、素を出すということは非常に難しい。人はマヌケさを隠蔽しながら生きてきているから、もしマヌケさを表現しなくてはならないとなったら、そのように隠蔽した上で、もう一度マヌケを演じければならないのだ。 しかし、加山雄三はすんなりと素を出して、簡単にマヌケさを表現しているように見える。これもひとつの才能だと思う。
そのようにして表現された加山雄三のマヌケさによって物語の確信があらわになっていく。言葉で伝えることの不可能性、人間が根源的にマヌケであること。
そして、高峰秀子もやはり最後の最後でそのマヌケさを露呈するのだ。強さと脆さと冷たさと熱さと、そしてマヌケさ。最後のクロースアップの表情で高峰秀子はこのすべてを発散しながら、銀幕の裡に消えていくのである。