エル
2004/4/22
El
1952年,メキシコ,92分
- 監督
- ルイス・ブニュエル
- 原作
- メルセデス・ピント
- 脚本
- ルイス・ブニュエル
- ルイス・アルコリサ
- 撮影
- ガブリエル・フィゲロア
- 音楽
- ルイス・フェルナンド・ブレトン
- 出演
- アルトゥーロ・デ・コルドヴァ
- デリア・ゲルセス
- アウローラ・ワルケル
敬虔なカトリック教徒のフランシスコは教会でであったグロリアに一目惚れする。しかし、そのグロリアが友人ラウルの恋人であると知った彼はグロリアと友人を夕食に呼び、グロリアに告白する。時は流れ、久々に首都に戻ったラウルはフランシスコと結婚したはずのグロリアが不安げな顔で辺りを見回しているところに行き当たる…
ブニュエルのメキシコ時代後期の名作。ブニュエルが描く「狂気」のひとつの頂点であるとも言える作品で、とにかく人間が狂って行くさまを克明に描いているのがすごい。
ブニュエルの映画はとにかく痛い。特にメキシコ時代は体を突き刺すように痛いのだ。もちろん、精神的にということだが、肉体的な痛みとも感じられてしまうくらいに、ぐいぐいと心をえぐられる。
それは、ひとつには彼が描く「狂気」が非常に身近なものと感じられるということがある。しかし他方で、その「狂気」はまったく受け入れがたいものでもあるのだ。そしてそんな「狂気」がもたらす悲劇はその闇があまりに深すぎて救いようがなく、見ているわれわれはただその暗闇の深みを見つめて恐れ慄くことしかできず、主人公を突き放して突き放したことによって痛みを倍化させてしまう。
この作品の主人公フランチェスコも最初はまったく同情できる人間として登場する。まじめで誠実な人間、人当たりもよく評判もよい。しかし、そんな人間がちょっとしたことで狂気への下り坂に足を踏み入れてしまう。この作品では明確なきっかけは示されておらず、もともと持っていた性質が表面化しただけとも考えられるが、ともかくも急激に狂気へと落ち込んでいくということは確かである。
ブニュエルはそんな人間を繰り返し描いてきた。それは決してこの世の中でまれなモノとしてではなく、われわれの日常と背中合わせにあるものとしてである。その身近さが映画からにじみ出てくるから、われわれはブニュエルの映画に恐怖し、痛みを感じてしまうのだ。
そして、それを徹底的に突き詰めたのがこの作品であるのかもしれない。ご都合主義のハッピーエンドに持っていくこともせず、その出来事を特権化して観客を安心させることもなく、完全な狂気に陥らせて日常の埒外に追いやってしまうのでもなく、最後までわれわれの身近なものとして描き続ける。その身のおき方こそが本当のブニュエルが考えていた「狂気」の場所なのだと思ったりする。ジャック・ラカンが講義に利用したというくらいだから、フィクションでありながらも「狂気」にまつわる真実を伝えているのだろう。
そのように恐ろしく、痛い映画ではあるのだけれど、ブニュエルはそれをいつも和らげて観客に提供する。ひとつはサウンドを使って観客が理解しやすくする。恐ろしい出来事の前には恐ろしいことが起きそうなBGMを流し、音楽が心理を象徴的に示す。
そしてもうひとつは笑いである。ブニュエルの映画には常に笑いが盛り込まれる。どうにもならない悲劇でも、そこには常に笑わせようという要素が入り込み、それが辛らつでシニカルなものであっても観客を笑わせるようなギャグを盛り込む。のだが、そのような意味でのギャグはこの映画にはない。笑いを提供する脇役が存在しないのだ。
しかし、主人公のフランシスコは少し笑える。それは狂気と隣り合わせの笑いであり、非常に危険なものを感じるわけだけれど、それでも笑いは笑いであり、そしてその狂気と笑いが隣接するものであるということもまた、ブニュエルが描こうとする「狂気」というものの本質であるとも感じられるのだ。
「狂気」と「笑い」、ブニュエルが描き続ける二つの要素が見事に(というか恐ろしいことに)融合したこの作品はブニュエルのひとつの到達点であり、それはつまりメキシコ時代という時代を象徴する作品であるということでもあると思う。