黄金時代
2004/4/24
L'Age D'Or
1930年,フランス,60分
- 監督
- ルイス・ブニュエル
- 脚本
- ルイス・ブニュエル
- サルバドール・ダリ
- マルキ・ド・サド
- 撮影
- アルベール・デュヴェルジェ
- 音楽
- ルイス・ブニュエル
- ジョルジュ・ファン・パリス
- 出演
- ガストン・モド
- リア・リス
- マックス・エルンスト
- カリダー・デ・ラベルデスク
映画はサソリの行動の学術的な解説から始まり、岩場の宣教師たち、山賊のような兵士たち、島に上陸する植民者たちと続き、植民者たちの傍らで不意に抱き合い転げまわる男女が捕らえられ、そこで時は一気に現在へと飛躍する。しかし、その男は同じように捕らえられたまま街を引き回され、女はパーティーのようなものに参加している…
画面で起こることを並べ立ててもいったい何の話かはちっともわからないブニュエルの『アンダルシアの犬』に続くシュール・レアリスム大作。今回もダリが協同脚本で、クレジットはされていないがかのサド侯爵も参加しているらしい。そしてマックス・エルンストが出演と、シュール・レアリストのオールスター劇場。
これはシュールレアリスムだからイメージの氾濫である。あるいは、イメージの氾濫によってシュールレアリスムを感じさせるのか。一応主人公のような2人がいて、物語のようなものがあるから、『アンダルシアの犬』よりは物語として捉えがちだけれど、そこに大きな落とし穴があるような気もする。『アンダルシアの犬』はただただイメージが氾濫するだけで、かすかな繋がりはあっても前後の脈略などというものはほとんどない。だから、映画の進行(シーンの連なり)と物語構造とが連動しているだろうという一般的な映画を見るときの姿勢をはなから捨て去ることができる。
しかし、この映画の場合は時が現代へと飛躍する段階で、一人の男が主人公らしく振舞う。そこで物語がふと頭をもたげ、凡人である全ての観客は物語を期待してみてしまう。そして、ヒロインらしき女性もいて、物語らしきものがたちあらわれているような気になってしまう。そのことによって、その物語に係わり合いのありそうな部分ばかりに目が行って、他の細部は霞の向こうに隠れてしまう。
これによって真にシュールリアリスティックなものへ到達することが難しくなり、何よりも眠くなるわけだが、これはブニュエルの失敗なのか、それともわれわれ観客が見事に嵌められたのか。ブニュエルなら、観客を眠らせようとすることすらも映画だと言い放つかもしれない。そして、この映画とはまさにそのような催眠効果を試すための実験だとも。
果たして、この映画から何かを読み取ることは正しい姿勢なのだろうか。何かを読み取るものとしてこの映画は見られるべきなのだろうか。シュールレアリスムとはシュールであることによって何かを語るものだから、この映画から何かを読み取るというよりは、この映画を見るという行為全体を再帰的にかみ締めることによって飛び出してくる何かこそを重要視するべきなのではないか。 自分自身の現実と、この映画で描かれている情景の齟齬。犬を蹴る、子供を撃つ、いきなり婦人に平手打ちを食らわす。そのサディスティックな行動の含意は、われわれの眼をわれわれ自身のサディスティックな性向に向けるべしということなのかもしれないではないか。
この作品に参加しているらしいサドの書くものを読むとき、たびたびそのサディスティックな記述が自分のうちに呼び起こすものを問いただす必要性を感じる。自分はこのサディスティックな行動に対してどのように感じているのか。文字を読み、その物語を読み取ることから演繹的に導き出される理知的な解釈とは別個の、何かが内側から湧き上がってくる。その内なる声は抵抗なのか、嫌悪なのか、それとも賛美なのか、陶酔なのか。読み進めるごとにそんな作業を繰り返すことで自分の内面をえぐっていく。サドの書くものを読むとはそんな経験である。
この映画にもそのようなざわざわとする感触がある。羅列された不条理さ、不合理さは、そのどれかが観ているわれわれの内なる何かと呼応する。それは同調するのか反発するのかはわからないが、とにかく呼応するはずだ。呼応しないとしたらそれは不合理というものをはなから拒否しているか、内なる声を無視しているか、ブニュエルの言葉が理解できないということだ。ブニュエルの言葉が理解できないということは、ブニュエルの言葉が不十分出るか、あるいは70年というときが理解するための距離を広げてしまったということだと思う。そういうことがなければ、裡から何かが湧き上がってきて、ポッと顔を出す。それは多分あまり気持ちのいいものではないだろう。その気持ち悪さこそがシュールレアリスムなるものの感触なのだと思った。