皆殺しの天使
2004/4/25
El Angel Exterminador
1962年,メキシコ,95分
- 監督
- ルイス・ブニュエル
- 原案
- ルイス・ブニュエル
- ルイス・アルコリサ
- 脚本
- ルイス・ブニュエル
- 撮影
- ガブリエル・フィゲロア
- 音楽
- ラウル・ラヴィスタ
- 出演
- シルヴィア・ピナル
- エンリケ・ランバル
- ルシー・カジャルド
- エンリケ・G・アルバレス
とある邸宅でパーティーが開かれようとしているが、なぜか使用人たちが次々と屋敷から出て行ってしまう。そんな中、招待客たちがやってきて(なぜか同じ映像が二度繰り返される)、パーティーが始まるのだが、夜中を過ぎても人々は帰ろうとせず、朝になってしまう。それでもみなはなぜか帰ることができずにそこにいた。
ブニュエルのメキシコ時代最後の作品は、カフカをも髣髴とさせる不条理な物語。非常にすっきりとはしているのだがとにかく謎ばかり。しかしなぜだか面白い。ブニュエルの不条理劇の傑作のひとつ。
何ともとらえどころのない話ではあるが、それは逆にいろいろに解釈ができるということでもある。いきなり面食らうのは、パーティーに到着する人々が二度映されるというところと、いきなり登場するクマだろう。クマのほうは、ブニュエルらしいシュールレアリスムの象徴的な光景として、とくに無理に解釈せずにすむとしても、二度同じ人たちが到着するというのはそうそう無視できるものではない。しかし、もちろんその意味もわからない。空間かあるいは時間が二重化されているということか、それとも何かの暗示か。
人々が集まったあとの乾杯のシーンも繰り返される。しかしこのシーンは到着のシーンがまったく同じシーンの繰り返しであったのとは異なり、2度目の乾杯では誰も話を聞いてくれないというオチがつく。しかし、これは現実での2度目の乾杯ではなく、1度の乾杯のくり返しであるということもまた明らかである。ということは、この繰り返しというものは基本的に「笑い」に寄与するものとして使われていると考えるのがよいのだろう。ブニュエルらしいシュールレアリスム的喜劇。そのひとつの方法としての反復、この映画は徹頭徹尾その反復が反復される映画であるといえるのだ。
だから、繰り返される様々な事を見つけ、その反復の相違点を探れば、この映画がどうして面白いのかが少し見えてくる。映画全体のからくりも反復をめぐるものであるし、オチもまた反復なのだから。
その反復を見つけることを少し超えて、その反復に果たして意味があるのかを考えてみる。そのために一番いいのは映画の大枠となっている繰り返しである。つまり屋敷から出られなくなってしまった人々に何が欠けているのかという鍵は、最初に屋敷に入るときにその行動が反復されたというところにあるのではないか。つまり彼らは映画上で2度屋敷に入っている。映画上では時間などまったく無視できるものだから、彼らは現実的に2度屋敷に入ることもできるはずだ。しかし、となると屋敷から出るためには2度でなくてはならないということになるのではないか? つまり、彼らが屋敷から出ることができないのは、1度しか屋敷から出ていないからなのかもしれない。と、物語の中盤で思い始めた。その推論があっていたかどうなのかは映画を最後まで見てもはっきりとしないのだけれど、そのように考えることでこの映画が現実をいかに捉えているのかということのかけらが見えた気がした。
という反復の話は、かなり哲学的なのか、あるいは狂気的なのか、とにかく理知的に理解することは難しい話である。ので、なかなかこの映画はとっつきにくいということになるのだが、もうひとつこの映画にはテーマ的なものがあって、そっちのほうはとっつきやすい。それは、この映画に登場する人たちがいわゆる「ブルジョワ」の人たちであるということだ。屋敷から出られない人たちはみなブルジョワで、屋敷の外にいる人たちは(逃げ出した使用人たちも含め)みなプロレタリアートである。この映画が作られたのは1962年で、ということは中年米あたりではキューバの問題がクロースアップされていたころである。ブルジョワとプロレタリアートという問題はヨーロッパでは19世紀後半から20世紀初頭の話という印象があるが、中南米ではこのころでもまだまだ熱いトピックだったのではないかと思う。
そんな中で、ブルジョワたちが屋敷から出ることができず、しかもただ手をこまねいていて、どうでもいいようないさかいばかり繰り返している図というのは非常に示唆的といえる。しかも、反復。ブルジョワとは同じことをひたすら反復している人々なのかもしれない。それはつまり無意味さの象徴、不毛のきわみである。
そんな情けないブルジョワたちが右往左往する姿を繰り返し見せておいて、ブニュエルはヨーロッパに戻っていった。