ナサリン
2004/4/30
Nazarin
1958年,メキシコ,94分
- 監督
- ルイス・ブニュエル
- 原作
- ベニト=ペレス・ガルドス
- 脚本
- ルイス・ブニュエル
- フリオ・アレハンドロ
- 撮影
- ガブリエル・フィゲロア
- 音楽
- ロドルフォ・ハルフター
- 出演
- フランシスコ・ラバル
- マルガ・ロペス
- リタ・マセド
- ヘスス・フェルナンデス
貧民街の宿屋で暮らす神父のナサリオはまたも盗みにあったが一向に気にしない。その宿屋にすむベアトリスは男に逃げられ失意のうちに首をつろうとするが、梁が壊れ失敗する。同じくその宿屋に住む淫売のアンダラは仲間のボタンを盗んだといって責められ、その仲間を切りつけてしまい、神父のもとに逃げてくる…
信仰をモチーフとしたブニュエルの作品のひとつ。キリストの受難にもなぞらえられるナサリオの巡礼の旅を見るにつけ、その裏に膨大なメッセージが隠されているのでは? と感じる。
印象としては、ブニュエルはあまり宗教というものを好きではないような気がするが、この作品はストレートに宗教というものを描き、キリストにもなぞらえられるような聖人を物語の中心としている。
ならばキリストを賛美する映画か、というとそういうわけでもない。
それはひとつには、主人公のナサリオ自身についての描き方の問題がある。彼は聖人といわれ、自分はそれを否定して、しかしその振る舞いは立派で無私の行動をする。それはまさしく初期のキリスト教を髣髴とさせるような聖職者らしい行動である。しかし、物語の最後に彼は自分に嫌がらせを続ける男たちに対して怒りを募らせ、「君たちを許すが軽蔑する」という言葉を吐く。彼は言葉では許すといっているが、同時に軽蔑するといってしまう。それは、心のそこから出た真実の言葉であり、それは同時に彼が決して聖人足り得ないということを示してもいる。
聖人というのはすべてを許し、それによって人に光を当て、その罪を犯した人が自ら食い入るよう仕向けるものだ。ナサリオも途中までは見事にそれに成功した。それは彼自身が罪を犯した人たちを憎まず、軽蔑もせず、彼らが自分自身と向き合うように仕向けたからだ。しかし、最後の最後に彼は失敗し、彼は聖人ではないことを証明し、一人の人間として他のすべての人と同じ位置に引き摺り下ろされる。
もちろんナサリオ自身はそれで文句はないというか、自分はその程度のものだと自覚していて、更なる精進をしなければならないと思い知ったことだろう。
そして、もうひとつ。ナサリオの周りの人たちも重要である。ここでは特に一緒に旅をするベアトリスとアンダラということになるが、彼女たちはナサリオを聖人と言う。それは彼の清い心と、奇蹟(のようなもの)をおこしたことによってそう思っている。しかし、彼女たちの頭にはナサリオも言うように、迷信や俗信があふれていて、本当に彼が言おうとしていることを聴いてはいない。彼女たちは自分の迷信や俗信の文脈の中でナサリオを聖人と捉え、宗教的熱狂にとらわれて、疲れたように彼を崇拝しているのだ。
キリスト教の教えは聖職者を崇拝することを教えているのではなく、聖職者を通して神を崇拝し、自己を見つめることを教えているはずである。だから、彼女たちは実際のところナサリオが導く道を歩いているのではない。彼女たちは彼女たち自身の勝手な考えでナサリオについていっているだけなのだ。
特にベアトリスはナサリオを想うとき、聖人に対する気持ちと異性に対する気持ちを併せ持っているように見える。そして彼女は母親に「それは男に対する気持ちだ」と一刀両断され、宗教的熱狂から狂ったようになってしまう。
このふたつのことが暗示するメッセージは非常に複雑なものだ。全体として宗教を否定しているわけではない。ナサリオという人間の生き方を否定してはいない。しかし、その道が険しいことは確かだし、彼のようなまさしく聖人でないとその道を歩むことはできない。それに対して一般の人たちは彼のことを理解しない。彼が本当に思っていることは理解せず、彼の表面的な行動を見て聖人だといったり、罪人だと言ったりする。ブニュエルはそれも否定しない。
基本的にはナサリオではなく、彼を取り巻く普通の人々にブニュエルは味方しているのだと思うが、その普通の人々には宗教を軽視する人もいれば、宗教的熱狂に取り付かれる人もいる。宗教的熱狂とは一種の狂気ではあるが、ブニュエルはその狂気も否定しているわけではないから、話はどんどんややこしくなる。
ただ、この映画のラストシーンで、警察に引かれてとぼとぼと歩くナサリオをベアトリスが馬車で追い抜き、どちらも相手のことを気づかないというのが、非常に印象的で、示唆的であるような気がした。
人生とは、このようなものなのか。と。