昇天峠
2004/5/2
Subida al Cielo
1951年,メキシコ,75分
- 監督
- ルイス・ブニュエル
- 原案
- マヌエル・アルトラギーレ
- ホアン・デ・ラ・カバダ
- 脚本
- ルイス・ブニュエル
- 撮影
- アレックス・フィリップス
- 音楽
- グスタヴォ・ピッタルーガ
- 出演
- リリア・プラド
- カルメリータ・ゴンザレス
- エステバン・マルケス
- マヌエル・ドンデ
- ルイス・アセベス・カスタニェーダ
とある海辺の村、めでたく結婚することになったオリベリオは風習に従って無人島に初夜を過ごしに向かうが、その途中で兄のフェリペに母が危篤だと呼び止められる。言ってみると母は「もう死ぬ」といい、兄たちは遺産を自分のものにしようと画策していた。母はオリベリオだけを信用していて、遠い街にいる公証人の下に使いに出すのだが…
ブニュエルらしい不条理さにラテンア・アメリカの陽気さ/陰気さがうまく組み合わさり、非常に味わい深い映画に。短い映画だが面白さがぎっしりと詰まって、カンヌで国際映画批評家連盟賞を受賞。
メキシコ→ラテン・アメリカらしさとは何か。ラテンのリズムというとすごく陽気な印象がある。だから基本的には底抜けの明るさなのかとも思うが、歴史を考えると、そう底抜けとも言っていられない。スペイン人に侵略されたという過去はまだしも(重要だが、そこで侵略されてしまった先住民たちは現代の文化の中心にはなれなかった)、その後も決して平穏な歴史の道を歩むことはなく、今もその多くの国は貧困にあえいでいる。
そのことを考えても、数多くの映画を見ても、彼らの生活は苦しい。この映画に登場する村は冒頭でヤシの木のおかげで生活ができているということが説明されているが、決して楽な生活とはいえないはずだ。そのような生活の陰が常に垣間見えるわけだが、そのなかでも彼らはとにかく明るい。苦しい生活にまったく絶望したりせず、それが当たり前であり、その中でこそ明るく振舞うべきであることを知っている。だから底抜けに明るく見えるのだ。
そして彼らは、細かいことに頓着しない。なんたって母親の誕生日にバスの乗客を招待してしまうのだ。そして乗客たちも喜んでそこに行く。よく考えるとものすごく非常識なことではあるのだが、それが決して非常識に見えないし、むしろ行こうとしないほうがおかしいという考えに賛成できてしまう。
そんな中でオリベリオだけは「母の危篤と遺産」という合理的な理由によって、合理的な行動をしている。しかし、もともとが合理的にできていない社会だから、彼の合理的な行動がそのまま合理的には受け入れられない。しかし、オリベリオもそれに怒ったりすることはあまりない。ただただ自分が急いでいるということを説明し、周りを説得するだけだ。それは彼もまたそれほど合理的な人間ではないからだ。
そして、それで意外にすんなりとことは運んでいく。もちろん欧米的な合理的な尺度からすれば、驚くほどトラブルだらけだと思えるわけだが、その合理的な杓子定規を捨ててみれば、「まあ、こんなもんだろう」と思ってしまうのである。
だから、これは完全に笑い話になる。「母親の死に間に合うのか」というクライマックスに向けたある種のサスペンス的な盛り上がりを持つ物語のように見えて、実はまったくもってアンチ・クライマックスな物語なのである。もちろん母親の死に間に合うかどうかは重要なわけだが、それは合理的な理由からではなく、気持ちの問題なのではないだろうか。
いがみ合う兄弟も、お金という非常に功利的なものについてもめているわけではなく、本当はもっと別のものについてもめているのではないかと考えてしまう。
終わり方もなんだかあっけないような気がするけれど、アンチ・クリマックスと理解するとけっこう腑に落ちる。それは端から端まで何ともいえない笑いが詰め込まれているからかもしれない。