哀しみのトリスターナ
2004/5/4
Tristana
1970年,イタリア=フランス=スペイン,99分
- 監督
- ルイス・ブニュエル
- 原作
- ベニト=ペレス・ガルドス
- 脚本
- ルイス・ブニュエル
- フリオ・アレハンドロ
- 撮影
- ホセ・アグアイヨ
- 音楽
- クロード・デュラン
- 出演
- カトリーヌ・ドヌーヴ
- フランコ・ネロ
- フェルナンド・レイ
両親に死なれたトリスターナは母の知人である貴族のドン・ロペの下に引き取られる。ドン・ロペは人間としては高潔だが、女にはだらしなく、トリスターナとも関係をもつ。トリスターナも言いなりになるようにそれを受け入れていたが、ドン・ロペの顔が鐘楼の鐘となっている悪夢を見るようになる。そして時間は飛ぶように過ぎ、トリスターナはドン・ロペに嫌悪感を覚えるようになっていく…
後期フランス時代にブニュエルとコンビを組んだカトリーヌ・ドヌーヴの主演作のひとつ。年を経るごとに変態度を増していくブニュエルの本領発揮といった感じの作品。
不条理や悪夢的というのがブニュエルの代名詞なわけだが、これくらいの時代になってくるとその色合いは薄れてくる。それでも無神論者でシュールレアリストという特質は変わらないから、モチーフやエッセンスはおのずと共通してくるわけだ。
無神論者であるからなのか、とにかくブニュエルの映画には宗教がらみの描写が数多く出てくる。この映画も舞台のひとつが教会の鐘楼であり、主人公のひとりであるドン・ロペは宗教を拒絶している。そして、鐘楼がもうひとりの主人公トリスターナの悪夢の舞台となり、宗教と悪夢というブニュエルの2つのモチーフがここで繋がっていくわけである。
したがって、このつながりはブニュエルにとっては非常に意味のあるもので、論ずるに足る題材ではあるわけだが、必ずしも明確に語られているわけではなく、自ら深く突っ込んでいこうと思わない限り、そのことについて考えるのはかなりしんどい。
それでも、蛇足のようにつけられたラストシークエンスを見ると、その悪夢と宗教の部分が重要そうだというのがなんとなくわかるので、それなりのエネルギーを注ごうと思えれば、そこにも考えが及んでいく。
このように突っ込み方によって幾重にも意味が込められているように思えるのがブニュエルの映画であり、その層が年々深まっていき、その分表面的には穏やかになる。その末にたどり着いたのがこの70年代あたりの一連の作品で、当たりはいいが、噛み応えがあるという感じがしてくるのである。
が、ここではとりあえず、表層に浮かび上がってきたテーマ的なものを見て行きたい。それはこの映画がブニュエルの語りである以前に、登場人物たちの物語であるからだ。ブニュエルの語りはあくまでも深層にあるテーマであって、この映画を見てまず捕らえられるのは表層の物語である。
そして、その物語は愛について語っている。
「愛とは醜いものなのよ」
そんな言葉はこの映画には出てこないが、この映画は多分そのようなことを言っている。基本的にはドン・ロペという変態的なおじいさんの話なわけだけれど、その変態的なる感情の背後にあるのは「愛」であり、その強さはおじいさんになっても変わらない。娘として引き取ったひとりの「女」を愛してしまったがゆえに訪れる悲劇、ドン・ロペの側から言えば、そのように悲劇的な愛の物語である。うことができるだろう。
また、トリスターナの側からしてもそれは悲劇の始まりであり、愛されるがゆえに愛することができなくなってしまう悲劇的な物語である。
そして、映画のほうは悲劇的であるにもかかわらず、ものすごく淡々としているのだ。本人たちにしてみれば劇的なはずの愛の物語をかくも日常的なものとして描いてしまう。
そしてそのように描かれたとき、彼らの愛は醜い。
が、それでいいのだ。愛とは醜いものなのだ。愛とは醜いものであるがゆえに美しい。
考えてみると、映画の様々な要素がそのメタファーになっているような気もしてくる。耳が聞こえず、口も利けないサトルノの存在は非常に効果的だと思うが、結局のところ彼の存在は何を意味するのか。
隻脚のトリスターナが裸体をそのサトルノに見せるという倒錯したシーンが言わんとしていることは何なのか。
表層を捉えようとしても、こうして結局、深読みしてしまう。それがブニュエルなのかもしれない。