銀河
2004/5/14
La Voie Lactee
1968年,フランス=イタリア,102分
- 監督
- ルイス・ブニュエル
- 脚本
- ルイス・ブニュエル
- ジャン=クロード・カリエール
- 撮影
- クリスチャン・マトラ
- 出演
- ポール・フランクール
- ローラン・テルジェフ
- アラン・キューニー
- デルフィーヌ・セイリグ
- ピエール・クレマンティ
スペインの聖地サンチャゴ・デ・コンポステーラ、そこを目指す2人のフランス人ピエールとジャン、彼らは不思議な人々に次々に出会い、不思議な(宗教的な)体験をしていく。その合間に彼らの空想なのか、それとも無関係の断片なのかはわからないが、過去の宗教にまつわる出来事がインサートされる。
宗教に対して厳しい目を向け続けるブニュエルが、徹底的にキリスト教について考えた野心作。キリスト教徒からは激しい反発を受けるか、完全に無視されそうな内容。
ブニュエルはずっと宗教を描き続けてきた。あらゆる作品の中に宗教的なモチーフが登場するわけだが、特に直接的に描かれているのはメキシコ時代では『ナサリン』、ヨーロッパに戻ってからではこの『銀河』である。この2つの作品に共通するのは、旅すること。『ナサリン』ではナサリノ神父がアパートを追い出されて放浪の旅をし、この『銀河』では2人のフランス人が巡礼の旅をする。旅をすることで、彼らは様々な人に出会い、様々な意見を戦わせる。キリスト教という宗教は非常に論争的な宗教で、この映画の中心的なテーマとなっている「異端」という概念も、論争の問題なのである。ブニュエルは、映画の最後に、映画に登場する宗教にかかわるエピソードが文書に基づくものだと明言しているが、それも考えると、「異端」という問題もただただ論争的な問題であるように思える。それはつまり、キリスト教という宗教がその時点で宗教的な内心性を失ってしまっていて、ただの言葉遊びに堕しているということではないか(とブニュエルは言いたいのではないか)。
映画の終盤に「信仰は感情から沸いてくる」という印象的なセリフがあるが、感情とは長続きしないものであり、感情から湧き出た信仰を確固たるものにするために必要なのは感情ではない。「異端」であるかどうかの判断は、その相手の感情を他人が判断することである。「否定します」と告白することで、その発言を取り消すことができるというのは、言葉という形式によって感情を便宜的に表象させているという、何ともご都合主義の考え方である。
などなど、ブニュエルの策略にまんまと乗って、キリスト教を批判するようなことを書いてしまったけれど、それもまたキリスト教の一面に過ぎないということも確かである。この映画はキリスト教を批判している(というか疑いの目を向けている)けれど、そのひとつの要因としてあるのが、キリスト教の内部に様々な論争と対立があるという点である。その中には疑わしいものもたくさんあるが、すべてではない。
ブニュエルはこんなにキリスト教を批判しているが、繰り返し描いているし、宗教自体を否定しているわけではない。宗教(的なもの)が必要だからこそ、にもかかわらずキリスト教の帰依することができないからこそ、映画によって宗教的なものを探求しているのだ。ブニュエルの宗教探求の旅がこの映画の2人の巡礼者に化体したのかもしれないとも思う。
それが証拠に、この2人の巡礼者はちっとも宗教的ではない。巡礼者なのに、神を冒涜するようなことを平気でする、神学理論にも興味がない。にもかかわらず彼らは歩いて聖地を目指し、それをあまり苦にしているようには見えない。 彼らは現実からはみ出たヌルリとしたもの、心をざわつかせるものに常に接している。唐突に登場するサド侯爵(と思われる人物)のエピソードなどは、彼らの想像、あるいは啓示、あるいは妄想、であるわけだが、そのような現実からはみ出たエピソードが次々と登場する。もしかしたら、旅のすべてがそんな想像/啓示/妄想なのではないかと考えさせるところもある。
わけがわからないと言ってしまえばそれまでだが、この映画自体が現実からはみ出た心のザラリとした部分に触れることを目的にしているのではないかと思うから、わけがわからなくて正しいのだろう。