TAIZO
2004/5/29
2003年,日本,90分
- 監督
- 中島多圭子
- 撮影
- 中島多圭子
- 音楽
- 深町純
- 出演
- 坂口憲二(声)
- 川津祐介(声)
戦場カメラマンの一ノ瀬泰造は1973年、26歳の若さでカンボジアの地で命を落とした。この一ノ瀬の生涯に感銘を受けた中島多圭子が自らカメラを担いで、西側メディアが誰も入れなかったアンコールワットへ潜入しようとしてた一ノ瀬泰造の足跡を追っう。
映画は基本的にはドキュメンタリーで、泰造自身の日記や手紙の朗読、写真の映像、母親や知人、当時の泰造を知るカンボジアの人々ヘのインタビューからなるが、時折『地雷を踏んだらサヨウナラ』の映像もはさまれて、わかりやすくなっている。
一ノ瀬泰造という人はすごく面白いと思う。父親から写真への興味を受け継いで、日大の写真科に入り、そしてカメラマンになり、戦場に赴く。そこで戦争に臆することなく前線に突き進んでいき、決定的瞬間を捉えようとする。同時にその土地の子供たちを愛し、友人を作るという人間的な温かみもにじみ出てくる。そして、そんな泰造の残したフィルムを少しずつ現像し、写真集にしようと活動してきた両親がいる。これを映画に、ドラマにしてつまらないわけがないというのが第一の印象である。
そして、映画に使われる泰造が撮影した写真もプロだから当たり前なのだが、さすがにうまい(戦場カメラマンとしての実力がどれくらいのものなのかは比較の対象がないので今ひとつわからないが)し、心を打つような写真も何点かある。そして、一ノ瀬の魅力に観客はひきつけられて、映画の中で誰かが言っていたように、「とっつきにくいが、知ってしまえば、愛してしまう」という一ノ瀬の特性のようなものもつかめるのだ。
しかし、映画の作り方から言うと、この映画が成功しているとはとても思えない。母親を前面に出し、劇映画の抜粋なども使って、捉えやすくしているのはわかるのだが、それが逆に素材である一ノ瀬のよさをそいでしまっているような気がするのだ。
まず、最もいらないと思ったのはしょっちゅうBGMのようにして使われるピアノの旋律である。ちょっと叙情的なボロリンという音で映画の雰囲気を盛り上げようとしているのはわかるが、それは一ノ瀬のキャラクターというか、一ノ瀬の生涯から伝わってくるものと比べると、あまりにセンチメンタルすぎるのだ。
このセンチメンタルすぎるという傾向は、映画の全体にもいえる。監督が、一ノ瀬と母親に感情移入してしまっているのはわかるのだが、それが度を越えて、感動物語にしすぎてしまっている。一ノ瀬はジャーナリストとして、ある種客観的な眼を持ち続けようとしているようなのに、このドキュメンタリストはあまりにセンチメンタルで、自己没入的だ。極端に言ってしまえば、一ノ瀬泰造なる人物を観客に伝えるためというよりは、自分が気持ちよくなるために映画を作っているように思えてしまうということだ。
それが端的に出てしまったのが、一ノ瀬の最後の写真を映す場面だ。そのこと自体は別にいいのだが、その写真から次のシーンへと移るときに、写真をセピア色にしてしまった。
この写真の加工はどうなのか。こういうことをしてしまうのを見ると、どうも一ノ瀬の精神を理解して、それを人に伝えようとしているとはとても思えなくなってしまう。ひどく言えば、一ノ瀬泰造というキャラクターを利用して、人々のセンチメンタルなこことを刺激して、自分のクリエーターとしての自己満足を満たそうとしているとしか思えなくなってしまうのだ。
一ノ瀬は写真に命を懸けてもいいと思った。この監督(あるいは製作者)はそのことに感銘を受けたはずなのに、写真に対する態度があまりにあまりなんじゃないかと思う。この監督はこの作品にいったい何を賭けたというのか。