エレファント
2004/6/2
Elephant
2003年,アメリカ,81分
- 監督
- ガス・ヴァン・サント
- 脚本
- ガス・ヴァン・サント
- 撮影
- ハリス・サヴィデス
- 出演
- ジョン・ロビンソン
- アレックス・フォレスト
- エリック・デューレン
- イライアス・マッコネル
- ジョーダン・テイラー
酒に酔った父親に代わって車を運転し学校に向かったジョン、校長に遅刻をとがめられるが、父親が心配で兄に父親を迎えに来てくれるよう電話をする。イーライは学校の前でパンク・ファッションのカップルの写真を撮り、学校の暗室に向かう。いじめられっこのアレックスは家で仲間のエリックと銃器の通販サイトを見ていた…
『ボウリング・フォー・コロンバイン』でも描かれた、1999年のコロンバイン高校での銃乱射事件をモチーフとして、ガス・ヴァン・サントが作り上げたフィクション作品。カンヌ映画祭で監督賞とパルム・ドールのダブル受賞という史上初の快挙を成し遂げた。
この映画は、観客がこの映画がコロンバイン高校の銃乱射事件をモチーフとしたものであることを知っていることを期待しているのだろうか? 普通に映画を見るならば、その程度の予備知識が耳に入ってくることは避けられず、ある程度は知ってみてしまうことになるのだが、映画としては観客がそれを知っていることを前提として作られているのか、それともまったく知らずに見ることもありえるとして作られているのか? 映画を見ながらそんなことを考えてしまった。
仮に、まったく何についての映画か知らず(公開直後にはそのような前提はほとんどありえそうにないが、10年20年たったら、そんなことは容易に起きうる)にこの映画を見たとしたならば、どのような映画に見えるだろうか。映画は非常に日常的な風景から始まり、突然に銃を手にしたいじめられっこが登場する。その展開は強力だろう。映画の途中で暗示されて入るが、結末がはっきりと見えるわけではない。だから、かなり衝撃を与える映画になるわけだが、そのように衝撃を与えてしまうがために、唐突な終わり方に当惑を覚えるかもしれないとも思う。
前提の知識を持って見たならば、まず観客はいったい誰が虐殺者であるのかを推測しながら映画を見始めるわけだが、それが誰なのかは比較的早い段階でわかり、次にほかの生徒たちそれぞれの行動がどのような結果に結びつくのかを観察していく。その生徒たちの行動はあまりに日常的であるわけだが、その先に悲劇が確信されているがゆえにそれは異なった相貌を呈してくるわけだ。映画はそこを描きたかったのだろうと思う。だから、結末として起きる虐殺事件そのものはこの映画の主題ではなかったということになる。虐殺事件が起こってもそれはどこか別の場所で起こっていることのような、日常の間隙をついた異常事態、現実ではない何かのように感じられてしまう。
そのとき、われわれは様々なことを考えることができる。その虐殺の意味というものを。もちろんそこには銃が簡単に手に入ってしまうというアメリカの現状があり、いじめという問題がある。そしてそれよりも重要な根本的な問題として「恐怖」という問題が覆いかぶさっている。この事件の唐突さというのは人々に強い恐怖を与える。そしてこの事件の発端も恐怖であるかもしれない。『ボウリング・フォー・コロンバイン』でも言われているように(確か「サウス・パーク」の引用だと思うが)、アメリカとは良くも悪くも恐怖によって動かされてきた国なのである。その恐怖のほとんどは幻想というか、過重な感情だが、実際に事実として存在してしまった例の一つがこの事件であるのだ。しかもそれが学校という安心できるべき場所で起きてしまった。
私はそんなことをこの映画から感じたが、だとしたらこの映画はすごく大きな問題をはらんだ映画であるということになる。つまり、この映画はこの事件がもたらしたものに対して何かをプロテストするのではなく、この事件がもたらした恐怖に根拠を与えてしまっているということになるからだ。恐怖の根拠が実際に存在するということを、あなたの隣に殺人鬼がいるということを立証してしまっているのだ。
もちろん、そのことから「何とかしなくては」という建設的な意見を立てることも可能だが、アメリカという国が「恐怖」によって動かされている国であるならば(この映画ではそういっているように思える)、それは更なる恐怖の再生産をするだけで終わってしまうのではないだろうか。
前提となる知識を持たずに見たならば、なおのことそうではないかと思う。 もちろん、この映画は観客にそれ以上のことを要求しているわけだ。題名の『エレファント』は「盲目の僧侶たちが象に触れ、それぞれの感じたことを表現しても、そこから全体像はわからない」(=部分しか見ずに全体を見誤る)という多分インドの教訓話から取ったそうで、そのことから考えると、ここに登場する生徒それぞれ(そこには加害者であるアレックスとエリックも含む)の視点からだけでは事件の全体像は見えてこないということを意味しているのだろう。そう考えると、この映画の構造の意味も見えてくるし、観客はそれを構築することを求められているのだということもわかる。
まあ、それはそれでいいのだけれど、私は映画の作品以上のものを観客に要求するこのような映画は好きではない。映画とはひとつの世界であり、何の予備知識もなくその世界に入っていっても、その映画が楽しめ、その意味がわかるものでなくてはならないと思う。映画の中に、その映画を味わうためのすべての要素が含まれてなければならないのだと思う。
この映画は別に「コロンバイン高校銃乱射事件についての映画」と言及されているわけではないのだから、完全に純粋なフィクションと見ることもできるわけだ。そう考えたときに、この映画は果たして何を語ることができるというのだろうか。題名の元になった教訓話のほうがまだ多くを語っているんじゃないかと思ってしまう。
それでも、この映画を見る前に『ボウリング・フォー・コロンバイン』を見て、できればパンフレットなり解説なりを読んで、どういう映画なのかを理解した上で見れば、なかなか考えさせられるいい映画と感じられると思う。