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スイミング・プール

2004/6/3
Swimming Pool
2003年,フランス=イギリス,102分

監督
フランソワ・オゾン
脚本
フランソワ・オゾン
エマニュエル・ベルンエイム
撮影
ヨリック・ルソー
音楽
フィリップ・ロンビ
出演
シャーロット・ランプリング
リュディヴィーヌ・サニエ
ジャン=マリー・ラムール
マルク・ファヨール
チャールズ・ダンス
preview
 ミステリー作家のテレーズは雨がちのロンドンで何とはなしに苛立っていた。そこで担当出版社のジョンが彼のフランスの別荘に滞在することを勧め、テレーズも素直にその勧めに従って半信半疑で別荘に行く。行って見ればそこは天気もよい楽園で、執筆もスムーズに進んでいた。しかし、そこに突然ジョンの娘がやってきて、その奔放な行動にテレーズは戸惑い、生活を乱されてしまう…
 フランソワ・オゾンお得意のミステリアスなサスペンス。限られた空間で展開されるドラマを作らせたら彼の右に出るものはいないかもしれない。単純なミステリーの範囲を超えたなかなかすごい作品。
review
 これが非常に巧妙なミステリーであることが最後の最後にわかる。果たして現実か否か。現実と非現実が交錯するというのはオゾン作品ではたびたび起こることだが、そのことがこの映画でもおきているのだ。
 この映画は確実にサラ・モートンの物語である。観客は娘ジュリーの存在にひきつけられるように仕向けられている(やたらと出てくるヌードもその手段の一つだろう)。実はそのことによってサラが物語の中心であることが巧妙に隠蔽されているのだ。そのように隠蔽されているサラの、その心の中の変化こそがこの映画の中心的な物語であり、真のミステリーであるのだ。

 この物語はジュリーが闖入してくる前からすでに始まっているのだが、表面上はジュリーが登場し、サラが「見る」存在となることから始まる。作家であるサラは常に「見る」存在として自己を規定している。サラがジュリーを見始める最初から自分が「見られない」ように隠れていることからもそれはわかる。そして、見る存在であるサラはその見たことを物語にしていく。これもまた作家である必然的な行動であるといえる。そして、彼女は書きあがるまでは作品を見せないと何度も公言していることから考えて、「見られない」存在であることにかなり固執しているということができる。
 そんなサラの書きかけの作品を、その作品の主人公であるジュリーが盗み見たことから物語は変化する。その瞬間にサラの作家としての「見る」存在としての存立基盤が崩されてしまうのだ。そこで彼女が部分的に見られる存在となり、彼女は徐々に変化していく。
 ということなのだが、最後まで見て見ると、ことはそれほど単純ではないということがわかる。


!!!!!!!!!!!!!!!
 ここからネタばれます。この映画は1度見ただけでは全体を理解することができないと思うので、映画を見て、この先を読んで、もう一度見る。というのをお勧めします。
 どちらにしても、この先は映画を見てから読んでください。
!!!!!!!!!!!!!!!


 最後に登場するジュリアがサラとすれ違ったときにサラに一瞥も与えないこと、そしてそれに対するサラの反応を見ると、この二人は初対面であると思える。しかし、次のシーンではジュリアがプールにいて、サラに手を振っているのだ。
 その問題はおいておいて、とりあえずジュリアとジュリーは別人であって、ジュリーが娘に成りすまして別荘にいついた存在でない限り、サラの創作した人物ということになる。しかし、本当の娘の名前がジュリアであることを考えると、その存在をサラは知っていたということになり、別荘で一緒に過ごしたのだということになるのかもしれない。その上で、ジュリーと言う架空の存在を作り上げ、別荘を舞台に物語を作り上げた。その物語とはサラの願望を具現化したものであり、見る存在である自分自身が見られる存在になることで生じる自分の変化の物語である。(映画の冒頭に表れた)自分の苛立ちのもとが「変わりたい」という願望であったことに気づき、それを実現することで自分を開放して言ったという自分の私的な物語なのである。
 実際に別荘にジュリーがいたのか、ジュリアがいたのかという問題は、結論付けることができないのかもしれない。しかし、そこにサラの創作が混じりこんでいるということは確かなことだ。
 何が創作で、何が現実で、何が幻想なのか。それをとく鍵はさまざまなところにある気がする。たとえば、プールサイドに横たわるジュリーを無言で見下ろすフランク、プールサイドに横たわるサラを無言で見下ろすマルセル。ベットの上の十字架。
 それらにも増して重要そうなのが、キーボードである。真上からとったキーボードにサラが手を伸ばすシーンはそれだけで非常に印象的でもあるわけだが、この創作を始めるということの象徴であるシーンには現実と創作とを分かつ機能があるのではないかと思ってしまう。そんなつもりで見ていなかったので、もう一度見るほかにそれを証明する手立てはないが、そうじゃないかなぁという気がする。
 そう考えると、別荘について、一人でいる段階でサラは創作を始めている。つまり、創作の世界に映画は入り込んでいるということになり、そこで登場するジュリーは現実の存在ではないということになる。そこからどこで現実に戻っているのかはわからないが、おそらくジュリアは別荘にいたのではないかと思う。それはジョンがサラの出発前に「たぶん娘がいると思う」と言ったその言葉、サラが家に着いたときに確認したジュリアの部屋のベットが使われているようであったこと、そしてそこにあった熊のぬいぐるみから推測できるのだ。

 まだまだ推理ゲームは続くわけだが、このように映画を見た後までも、映画について考えさせてしまい、もう一度見てみようかなという思いにさせてしまう、そのあたりがフランソワ・オゾンの映画作家としてのすごいところだと思うのだ。
 見たものはそれぞれにそれぞれの推理を展開する。映画の不思議さがそうさせずにはおかないのだ。

Database参照
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監督順: 
国別・年順: フランス

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