柔らかい肌
2004/6/4
Le Peau Douce
1963年,フランス,118分
- 監督
- フランソワ・トリュフォー
- 脚本
- フランソワ・トリュフォー
- ジャン=ルイ・リシャール
- 撮影
- ラウール・クタール
- 音楽
- ジョルジュ・ドルリュー
- 出演
- ジャン・ドザイー
- フランソワーズ・ドルレアック
- ナリー・ベネデッティ
- サビーヌ・オードパン
文芸評論家のラシュネーは講演のためリスボンに行く。友人の車でぎりぎりに空港に着いた彼は何とか飛行機に乗せてもらい席につく。そこで見かけたスチュワーデスの二コールをホテルで見かけたラシュネーは彼女を食事に誘い、帰国を延ばしてまでも彼女との時間を過ごす。そして、帰りに飛行機で彼女の電話番号をもらい、その逢瀬はパリでも続く…
トリュフォーの4作目の長編作品は、不倫を題材にして、恋とサスペンスというトリュフォーらしい題材を扱って地味ではあるが観客をひきつける仕上がりになった。
トリュフォーは言葉に頼ることなく、心理を描写していくのが絶妙にうまい。とこの映画を見て思った。ランスの町でうるさく付きまとう友人に大して感じるラシュネーの苛立ち、妻に電話したいというラシュネーの気持ちを察してしまうニコールの戸惑い、そのような気持ちが画面からあふれ出るように見えてくる。
それは、表情や体の所作のタイミング、間の取り方によって実現されているわけだが、とくに正面からじっと見据えるように捉えられたラシュネーの表情が印象的だ。人間の心理とは(映画的には)言葉に頼らずとも表現できるものだ。そんなことを感じた。
だから、非常に静かで動きが少なくとも、映画に引き込まれてしまう。物語だってたいした物語ではないのだが、映画の表面には表れない(あるいは染み出すように表れてくる)心理の行き来を見ていると、どんどんと映画に引き込まれていってしまう。それはもしかしたら、トリュフォーが敬愛してやまないヒッチコックの影響なのかもしれない。ヒッチコックはサスペンスというジャンルではあるけれど、人の心理をスクリーンの上に刻み、それでサスペンスを盛り上げた作家であったのだとトリュフォーを見ながら気づく。トリュフォーはヒッチコックの心理描写の見事さに敬服し、それを学び、自分なりの方法でそれを実現しようとしていた。この作品を見ると、そんなトリュフォーの映画に対する真摯な姿勢が見えてくるようである。
そのように、トリュフォーらしいまじめさが見えてくる作品だが、物語のほうはたいした話ではない。ただ3人の男女の三角関係を描いただけであり、よくある不倫の話である。
しかし、その当事者の3人それぞれが簡単には割り切れない心の持ちようでいるところが面白い。おのおのが自分自身の心情を処理しきれず、相手にそれを預けてしまう。自分の処理しきれない気持ちを相手に委ねてしまって相手に依存する。ラシュネーが特にそのような傾向を持っている。そのことによって生じる軋みが彼らをすれ違わせ、物語をある種の悲劇へと導く。
結末を見れば悲劇的ではあるが、しかしこれは悲劇なのであろうか。この物語は悲劇と呼ぶにはあまりに日常的過ぎる。決して互いを理解し得ない人間は常にこのような悲劇と隣りあわせで生きている。極端にしてしまえばこの物語のようになってしまうわけだが、このようなすれ違いは日常にあふれているのだ。
そのような日常の軋みによって生まれた、当たり前の生活の間隙からひょっこりと狂気や暴力が飛び出してくる。そのことによって事件が起こってはじめてそれは悲劇と呼ばれる。悲劇があるから事件が起こるのではない。事件が起こったからそれは悲劇なのだ。
それはあらゆる悲劇に当てはまる真理なのかもしれないと思う。『エレファント』に取り上げられたコロンバイン高校の銃乱射事件もそのような暴力の極端な発露なのではないだろうか。