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婦系図

2004/6/5
1942年,日本,101分

監督
マキノ正博
原作
泉鏡花
脚本
小国英雄
撮影
三浦光雄
音楽
鈴木静一
出演
長谷川一夫
山田五十鈴
古川緑波
高峰秀子
三益愛子
村瀬幸子
沢村貞子
preview
 柳橋の芸者屋で下働きをしているお蔦は幼馴染の主税のことを思っていたが、両親のない主税は悪事に手を染めていた。ある日、主税はスリをしようとして男に捕まり、そのままその男・酒井俊蔵の家に連れて行かれる。そして、彼に口説かれるままに彼の書生となった。5年後、主税のことを慕い続けながら芸者となったお蔦が主税と再会する…
 泉鏡花の恋愛劇をマキノ正博が長谷川一夫と山田五十鈴で映画化。さらに高峰秀子、古川緑波、三益愛子と脇役にもそうそうたる面々を配して、かなり見ごたえのある作品に。
review
 タイトルが『婦系図』であることからもわかるようにこの映画はあくまでも「女」の映画である。それはまずは山田五十鈴の映画であるということであり、スター長谷川一夫はあくまでもその引き立て役に過ぎないということだ。
 その象徴的なシーンは、2人が別れることに決めた夜、蕎麦屋で涙ながらに語らうシーンである。ここでしくしくと泣くお蔦に対して主税は「これからどうするんだ」と訊く。女は「今日は考えたくない」というようなことを言う。自分から別れを切り出した男は言うべき言葉が見つからず、ついつい先のこと、未来のことを訊いてしまう訳だが、これがその場にふさわしい言葉ではないことは明らかである。
 お蔦は明らかに悲劇的な未来について考えるよりも(それは避けようとしても考えざるを得ないことなのだから)、現在のかけがえのない瞬間の、つかの間の幸せに浸りたいと望む。彼女にしてみれば、「明日死にます」と宣告された末期の患者のように未来に絶望する気持ち(そこにはわずかな諦念が含まれるのかもしれない)なのだから、その一晩をただ悔いのないように過ごしたいと願うだけなのだ。
 主税はそれがわかっているのかわかっていないのか、ともかく明日のことを訊いてしまう。この明らかなデリカシーのなさはこの映画における男と女の存在の大きさの違いを示しているし、ひいては男と女の物事に対するスタンスの普遍的な違いをも示しているように思える。男は絶望的なものから目をそむけ、その先にあるものを見ようとする。女は絶望的なものを見つめなおし、そこまでの生を十全に生きようとする。そんな男女像がこのシーンから浮かび上がってくるようである。
 この見方が必ずしも普遍的とは思わないが、現代という時代においては、ここで女に当てられている世界に対するスタンスをとらざるを得ないのかもしれないとも思う。ここでの男のスタンスはロマンティックすぎて非現実的なのかもしれないのだ。極論すれば世界の終わりは明日来るかもしれない。ということになるのだが、それはあながち嘘ではない。終末論的な未来に対する絶望感はますます強まっているように感じられるのだ。だから絶望的な未来の先にあるであろう何かを想像してみるというのは、まったく無意味なことであるかもしれないのだ。

 話がどんどん飛躍してしまったが、この映画が撮られたころ、あるいは原作が書かれたころも未来に対する絶望感が強い時代だったのではないかと思う。いま世間に蔓延している「昭和」に対するノスタルジーは未来が輝いていた時代に対するノスタルジーであるのだと思う。そのようなノスタルジーが蔓延する背景にあるのは現在においては、未来が絶望的であるということである。ノスタルジックな過去に逃れることで、絶望的な未来から眼をそむけようとするのだ。
 しかし、そんな輝ける過去の前には、今と同じく絶望的な未来を抱えた時代があったということをこの映画は示してくれる。そういってみたところで、現在の絶望感が薄れるわけではなく、未来に希望がわいてくるというわけではないが、ノスタルジーに浸ることだけが絶望的な未来に対処する方法ではないということを示唆してくれはする。
 そして、ノスタルジーという決して生産的ではない追想に浸っているよりは、現在を見つめなおすために現在と対比しうる過去を見つめなおすことのほうが有益なのではないかと思えるようになる。
 ここまでのロンに当てはめてみると、ノスタルジーに逃れることは過去を通じて絶望の先にあったはずの未来を見つめることであり、この映画で言えば「男」の行動と同じことになるのではないか。それに対して現在を見つめるということは「女」の行動に通じるものがあるのだ。どこかで逆説的なような気もするが、現代という時代において世界に対して「女」のスタンスを取らざるを得ないということは、つまりその絶望に正対しなければならないということであるのだ。

 この映画でその「絶望」を象徴するのは古川緑波演じる酒井俊蔵である。非常に自分勝手で理不尽で独善的に見えるこの人物像には、共感できないが、終末とはそのように理不尽なものであるのであり、その意味でこの人物は終末を非常によく体現している。
 最後の最後、終末が訪れることが確実になったところで、この「絶望」は女に手を差し伸べる。「まっすぐな心に打たれた」的な理由づけがなされていはいるが、そんなものは誤謬に過ぎず、実際のところ彼女の死が目前になったから彼はお蔦を許したとしか思えない。彼女の死は悲劇であるかのように映るわけだが、絶望的な別れの後の彼女の生こそが悲劇であって、死は彼女にとってある種の救いだったはずなのだ。にもかかわらず、手遅れになった死の直前になって、未来が存在するかもしれないということをほのめかすその残酷さ。このように絶望が徹底的に絶望である(つまり常に望みを絶ち続ける)ことによってこの物語は展開して行っているわけだが、あまりにやるせない。
 これは、この物語のもう一人の女、子供を取り上げられた芸者小芳にも当てはまる。ここでも絶望を象徴する酒井俊蔵は決して娘を返しはしないだろう。小芳にとって娘とはいわばノスタルジーであり、まだ未来があった時代の未来の象徴であるのだ。彼女は娘を見ることでありえたかもしれない未来に思いをはせ、自分を慰める。しかしそこに絶望から脱する希望は残っておらず、現実に立ち返れば絶望しか存在しない。

 この物語は「女」の物語であると同時に「絶望」の物語である。絶望は絶望であるから、そこには希望がないわけだが、それでも生きていかなければならない。この映画はそのことをズバッと描き、われわれを絶望させてしまう。私が言えるのは、まだ絶望することできるということは、あなたはまだ絶望の淵に沈んでしまっているわけではないという気休めだけだ。絶望の深淵のその底は、まだまだ下のほうにあると思わなければ、われわれは生きられない。
Database参照
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国別・年順: 日本50年代以前

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