薔薇合戦
2004/6/7
1950年,日本,98分
- 監督
- 成瀬巳喜男
- 原作
- 丹羽文雄
- 脚本
- 西亀元貞
- 撮影
- 竹野治夫
- 音楽
- 鈴木静一
- 出演
- 三宅邦子
- 若山セツ子
- 桂木洋子
- 鶴田浩二
- 永田光男
- 安部徹
- 大坂志郎
- 千石規子
里見家の三姉妹の長女・真砂の夫である剛三は病床にあるが、背任横領の罪で追求されてもいた。次女の雛子はそれをもみ消そうとその秘密を握っている茂木と会い、書類を手に入れた。しかし剛三は亡くなり、真砂は横領したという金と新会社を作るための資本をパトロンの笠原から手に入れる。その新会社ニゲラは成長を遂げるが、三女の千鈴はそんな姉の束縛から逃れようと家を出る。
とにかく複雑な人間関係の中、三姉妹が懸命に生きる姿を成瀬巳喜男が描いた群像劇。とにかくいろいろな人が登場し、関係をかき回していくので、それを捉えるのが大変。
三姉妹に周りの男、その複雑な関係性だけでドラマは展開していくのだが、とにかくその関係が複雑である。三姉妹を中心に男はざっと6人、その周りにさらに女が3人いることになる。というわけでおよそ十数人がすったもんだを繰り返し、あっちに転がりこっちに転がりとなっていく。
ただそれだけといえばただそれだけなのだが、そこには直接的に描かれていない秘密めいた部分もずいぶんある。冒頭の辺りで茂木と会い、書類を手に入れる雛子。彼女は茂木と関係を持っていないといい、実際関係を持ったようには描かれていない。しかしそれを完全に否定するわけでもない。だとするならば、果たして雛子を信用していいのか、それとも体を与えずにそんな重要な書類を手に入れるわけがないという至極まっとうな邪推を受け入れるべきなのか、その判断は完全に観客にゆだねられているのだ。そのような謎は真砂と笠原の関係にも隠されていて、果たして何が真実であるのかがすべて審らかになるようには描かれていないのである。
それによって、話はさらに複雑になるわけだが、そのような複雑さ/わかりにくさは、わかりにくいことによって現実に結びつき、そこにリアルな世界がたち表れてくるように思える。
現実とはそのような推測(邪推)の積み重ねによってしか成り立たないものであり、私たちは現実というものをそのような推測によって見ているのである。推測を積み重ねることで、自分なりに物語を紡いで、その物語によって世界を捉えようとする。
この映画はそのような推測の部分が働く余地を残し、そのことによって非常に現実的な物語になってしまった。「なってしまった」というのは、このことによってこの映画が夢の世界の産物ではなくなってしまったということを意味する。
われわれが現実をいかに捉えているかということを見つめなおさせてくれるという点ではこの映画非常に面白いわけだが、果たしてこの映画はそのような映画としてあるものなのか。ひとつのドラマとして私たちをその世界にいざなうものとしてあるのではないか。そのように思うのだ。
成瀬巳喜男といえば「女性」を描いたら抜群にうまい監督である。この映画もその例に漏れず、三姉妹が主人公になり、それぞれがそれぞれに男とそして社会と対峙して行く。その3人はそれぞれに独特の価値観や性質を持っていて、それが女性像を多面的に築いていくという成瀬らしい展開を見せるわけだが、それがあまりに現実的であるためにほほぉ~と感心して終わることができないのだ。
それぞれがそれぞれにそれまでの出来事に結論をつけて、未来に向かっていくわけではあるが、そこに一抹の寂寥感があって、なんとも腑に落ちないのである。
そんなことを考えながら、しかし成瀬というのは実は非常に現実的な映画を採る監督だったのではないかとも思う。小津が社会の観察者だとしたら、成瀬は社会の分析者、女性という切り口で常に社会を分析し、現実にひきつけて観客に提示してきた。そのような成瀬の見方もできるのではないかとも感じた。