ピアニストを撃て
2004/6/14
Tirez sur le Pianiste
1960年,フランス,88分
- 監督
- フランソワ・トリュフォー
- 原作
- デヴィッド・グーディス
- 脚本
- フランソワ・トリュフォー
- マルセル・ムーシー
- 撮影
- ラウール・クタール
- 音楽
- ジョルジュ・ドルリュー
- 出演
- シャルル・アズナヴール
- マリー・デュボワ
- ニコール・ベルジェ
- ミシェール・メルシェ
誰かに追われているらしい男が道でぶつかった見知らぬ男と結婚について雑談をする。追われているらしい男はレストランに入り、そこでピアノを弾いている弟シャルリを訪ねる。追われていた男シコは弟のピアノでのんきに踊っているが、そこに2人組みがやってきて裏口から逃げ出した。シャルリはウェイトレスのレナが彼にほれていると店主に言われて舞い上がる…
トリュフォーの長編第2作。サスペンス・タッチの作品ではあるが、なんとも人を食ったような展開と映像に若さを感じる。
兄のシコが何者かに追われているというプロット、シャルリとレナとの恋というプロット、階層として挿入されるシャルリとその妻のプロット。その3つのプロットを短い映画の中に詰め込んで、しかも余分とも言えるような会話やシーンをどんどん挟み込んでいく。90分の映画だが、あまりに盛りだくさんで「長かった」という感覚すら覚えてしまう。それはこの映画のすごいところでもあるけれど、「長かった」と感じてしまうということは、その盛りだくさんの要素を消化し切れていないということかもしれない。
それは、この映画のテンポの悪さとも映る。兄のシコがなぜ追われているのかは一向に判らないまま、追っ手である2人組みに脅されて車に乗せられたシャルリとレナはたわいもない世間話をし、自分の親父はこう言っただのという話をする。そして、2人はクライマックスもないままそこを逃げ出し、今度は2人の恋が展開し、シャルリの回想シーンになるというように、観ている側にはどうにも焦点の定まらない展開になってしまうのである。
しかし、これは決して失敗ではないと思う。このような観客の期待をはずすこと、「当たり前」な映画の展開の仕方を突き崩すことこそがトリュフォーの狙いだったのではないかと思うのだ。古典的ハリウッド映画なら、兄のシコのプロット(サスペンス)が主プロットとなり、シャルリとレナのプロット(ラブロマンス)がサブプロットとなって、主プロットを中心に展開していくが、最終的にはシャルリとレナとが結ばれてめでたしめでたしとなる、というのが典型的な展開の仕方だろう。
トリュフォーはそんなハリウッド映画に(多分)敬意を持ちつつ、その展開の仕方を崩していくのだ。ヒッチコックやルノワールを敬愛していたトリュフォーにしてみれば、彼らを模倣することによってではなく、彼らのスタイルを借りつつ、それを突き崩すことによってしか彼らを超えることはできないと感じていたのかもしれない。
ということで、なんともアンチ・クライマックスな映画になったわけだが、それらのプロットというのは実は表面的なスタイルに過ぎないのかもしれない。この映画の本質はどうにも弱気から脱することができない男の物語というものなのだと思う。妻との関係/ピアニストとしての成功を回想するシーンでシャルリは「弱気を直す」講座のようなものに通おうとしてみたり、そのための本を買ってみたりする。これは妻との関係がこじれたことの原因という映画の中では小さな要素に過ぎないように見えるが、実はこれこそがどうも散漫で退屈に見える映画の全体に通底するテーマであるのだ。
兄の頼みは断れず、レナの手を握ることはできず、妻に大事なことも言えず、ストッキングを買ってきてくれと頼まれ、自分の正当性を主張することもせず、レナにも大事なことをいえない。最後まで見てみれば、弱気な男の真の友達はピアノだけ、とでも言いたげなのである。
トリュフォーはどうしてもそんな弱気な男の物語を撮り続けてしまう。そしてそれを象徴的に示すのが他の映画でも登場する「ストッキングを買って来てと頼まれる男」である。この映画はそんな「弱気な男」シリーズの第1作と言うことができるのかもしれない。