裸の島
2004/6/29
1960年,日本,96分
- 監督
- 新藤兼人
- 脚本
- 新藤兼人
- 撮影
- 黒田清巳
- 音楽
- 林光
- 出演
- 殿山泰司
- 乙羽信子
- 田中伸二
- 堀本正紀
手漕ぎ船に桶を積んで海を渡り、田端で水を汲み、その桶を再び積んで島へと帰っていく夫婦。島では子らが朝食の準備をしている。無言で朝食を食べ終え、母と息子の一人は船で学校へ向かい、もう一人の息子はモリを担いで海へ、父は天秤棒で桶を担いで畑へと向かった。
瀬戸内海に浮かぶ孤島に家族だけで暮らす4人の生活を淡々と描いた実験的な作品。全編にわたってセリフを廃し、研ぎ澄まされた映像と林光の音楽が観るものを鋭く捉える。モスクワ映画祭でグランプリを受賞。
映画にセリフがあるというのは至極当たり前のことのように思える。しかしこの映画にはセリフがない。しかし、サイレント映画だというわけではない。セリフ以外の音(ノイズ)は排除されず、音楽も非常に効果的に使われている。特に音楽はこの映画のドラマを支える中心的な役割を担っていると言っていい。そして、嬌声や嗚咽が口から漏れると、それも音として拾われるのだ。しかし、徹底的に意味ある言葉は排されている。映画を見始めた段階では、彼らはただ寡黙なだけなのかもしれない、あるいは口が利けないのかもしれないなのかもしれない、という考えが頭をよぎる。しかし音楽の授業とお経を唱えるシーンで、セリフが排されているということが決定的に明らかになる。特にお経を唱えるシーンでは、僧侶の口が動いているにもかかわらず、そこからお経が聞こえてくることはないという異様な光景が展開されるのである。
セリフがないということは、セリフの部分を他の表現によって補うというだけでなく、セリフ以外の部分に観客の注目が行くということも意味する。そのために、純粋な映像美と言いうるようなものが強く主張してくるのだ。言葉による物語に引っ張られながら映画を見るということは、どうしても言葉に注意を向けがちになる。それはつまり映像に対する注意がおろそかになるということを意味する。言葉と映像とは受容する脳の部分が異なっているから、両方に同時に注意を向け続けるのは非常に疲れる。だからついつい言葉にひきづられて映像のほうを「見逃す」のだ。
それと比べるとこの映画では映像を「見逃す」可能性は限りなく少なくなる。観客はただ映像だけに注意を向けていればよいのだ。だから、この映画の映像は鋭く心を打ち、いつまでも印象に残る。肩に食い込む天秤棒にバランスに気をつけながら、ゆっくりと歩を進める乙羽信子の体にみなぎる震えるような緊張感は鮮やかに脳裏に焼きついて、なかなか消え去りはしない。そして、繰り返しカラカラに乾いた地面にしみこんでいく水が生命について能弁に語り、殿山泰司の平手打ちは生きるということの重さを乙羽信子の心に打ち込むのである。
この映画のエッセンスは言葉にしてしまうと非常に陳腐なものになってしまう。だからこそこの映画にはセリフがないのかもしれない。無数の言葉を繰ってこの映画を説明しようとするその行為自体に違和感を覚えて、それはこの映画に憧れているという心情の吐露でしかないのかもしれない、などと考えてみたりもする。