バーバレラ
2004/7/13
Barbarella
1967年,フランス=イタリア=アメリカ,102分
- 監督
- ロジェ・ヴァディム
- 原作
- ジャン=クロード・フォレスト
- 脚本
- クロード・ブリュレ
- ロジェ・ヴァディム
- テリー・サザーン
- ジャン=クロード・フォレスト
- ヴィットリオ・ボニチェリ
- ブライアン・デガス
- チューダー・ゲイツ
- クレマン・ビドル・ウッド
- 撮影
- クロード・ルノワール
- 音楽
- ミシェル・マーニュ
- チャールズ・フォックス
- 出演
- ジェーン・フォンダ
- ジョン・フィリップ・ロー
- デヴィッド・ヘミングス
- マルセル・マルソー
- クロード・ドーファン
時は宇宙時代、宇宙飛行士のバーバレラは地球国大統領から、兵器となる強力な光線の開発に成功したデュラン=デュラン博士を探し、連れ帰る任務を言い渡される。バーバレラは早速デュラン=デュラン博士が消息を絶ったという星系に向かうが、磁気嵐に襲われ惑星に不時着、そこでヘンな子供に捉えられて、変な人形の餌食にさせられそうになる…
カルトな人気を誇ったアメリカのコミックの映画化で、ジェーン・フォンダがキッチュでエロティックなヒロインを熱演、様々なわけのわからない仕掛けによって、圧倒的にバカな映画として映画史に名を刻んだ。
この頃のSFが今見るとB級にしか見えないのは仕方のないことだ。映画冒頭の無重力ストリップも、どう見ても俯瞰で撮った画像でしかないし、宇宙船のセットはあまりにもちゃちである。しかし、このセットは今から見るからちゃちに見えるのかというと、おそらくそうではなく、この時代でももう少し工夫すればもちろんもっといいものは作れたに違いない。
しかし、この映画はちゃちであるからこそ面白いのだ。なぜ宇宙船の内装を全て毛皮にする必要があるのか、なぜピンク色に塗る必要があるのか。どうしてジェーン・フォンダは10分ごとに服を着替えるのか、などなど、どうにもぬぐえない疑問でこの映画は埋め尽くされている。
だからなんとなく観ているとなんともつまらない映画だ。展開はだれているし、物語の展開には説得力がないし、アクションには迫力がない。だから、これを前時代的なお色気SFと見ることは簡単だ。
しかし、この映画のちゃちさがどこに向けられているのかを考えてみると、この映画はそもそもSFである必要はなく、あるいは映画である必要すらなかったのだということがわかる。この映画はまったくもって、ジェーン・フォンダのための映画以外の何ものでもない。冒頭からジェーン・フォンダの肢体を見せ付け、大統領とのテレビ電話に裸で出る。次々と取り替えられるコスチュームも、宇宙船も、惑星すらもジェーンフォンダがまとう衣装として作られている。言ってしまえば全ての登場人物も、映画そのものもジェーン・フォンダという女優のために用意された衣装であるのだと思う。
ジェーン・フォンダがまとっては脱ぎ捨て、それによって様々な表情を見せることが出来る、そのために全ての人とものがあるということだ。
だからこの映画はイカれている。この映画の世界の全てがバーバレラの夢のようなものなので、そこではまさに何でも有り、愛は地球を救うではないけれど、セックスで全ては解決し、登場する人たちは彼女の意のままに動いてしまう。
しかし、この映画はイカしている。内容はともかく、好き放題できてしまったことによって、斬新な美術と映像と音楽で独特の世界観を作り上げることが出来た。まさに60年代のキッチュとサイケを映像に焼き付けたという感じである。それは映像そのものから映画に登場する道具にまで及ぶ。この映画のひとつのクライマックスはあまりの快感に人が死んでしまうという「愛撫ピアノ」にバーバレラがかけられるシーンなわけだが、この機械のバカバカしさと面白さは筆舌に尽くしがたいとしか言いようがない。他にも透明の鍵とか、ヘンなものがたくさん出てきて、とにかく私たちを楽しませてくれるのだ。
ところでこの映画、もうひとつポイントがあるとすれば、「サド」だろう。この映画で明確に用いられているモチーフはSMである。SMとはつまりサド・マゾ、根源をたどればマルキ・ド・サドの世界(著作)が出てくるわけだ。そして、この映画は明らかにそのサドの小説の世界を意識して作られている。悪人ばかりがいる町ソゴーはサドの小説「ソドムの百二十日」のソドムである。このソドムはもちろんパゾリーニが『ソドムの市』として映画化したソドムである(ロジェ・ヴァディムはパゾリーニの十年先を行っていたということになるのかもしれない)。そこで人々は放蕩の限りを尽くし、性の快楽に溺れているのだ。
そしてもうひとつ、快感に恍惚のなった状態で死ぬという「愛撫ピアノ」の発想も、サドの小説に繰り返し出てくるモチーフであるといえるだろう。そしてサドは悪を愛した人物でもあった、悪人は快楽を得、善人は悲惨な運命をたどる。それはまさにこのソゴーの街の構造そのものである。
しかし、結局バーバレラがその無邪気さによって悪から逃れてしまうというのはあまりに安易過ぎたという感は免れない。サドの小説のすごさは読者がそれに抵抗しなければならないというところにあるのだ。サドの小説に安易な逃げ道はない。読者は自分で出口を見つけなければならない。
だが、映画としてはこれでよかったのだろう。サドというのは世界観にひとつの統一感を出すための道具であって、主役はあくまでもジェーン・フォンダなのだ。サドもまたジェーン・フォンダのための衣装、キッチュさを出すための手段に過ぎないのだ。