マーニー
2004/7/14
Marnie
1964年,アメリカ,129分
- 監督
- アルフレッド・ヒッチコック
- 原作
- ウィンストン・グレアム
- 脚本
- ジェイ・プレッソン・アレン
- 撮影
- ロバート・バークス
- 音楽
- バーナード・ハーマン
- 出演
- ショーン・コネリー
- ティッピー・ヘドレン
- マーティン・ガベル
- ダイアン・ベイカー
- マリエット・ハートレイ
働いていた事務所の金庫から金を盗んだマーニーは髪を黒髪からブロンドに変え、テイラー夫人と名乗って新たな就職先を探す。今度の就職先の社長マークはマーニーに惹かれ、言い寄る。マーニーは今度も見事に金庫から金を盗み出すが、マークはマーニーを見つけ出し、マーニーの正体を知っていることを告げる…
ヒッチコック晩年の作品のひとつ。主人公のトラウマを見事にサスペンス・ドラマに織り込んで、ヒッチコックらしい作品に仕上げている。
マーニーの赤い色への異常な反応と、男性恐怖、その原因を探ることがこの作品の筋道となる。サスペンスとは言ってもいわゆる犯罪をめぐるものではなく、真理を探るものなのだ。ヒッチコックといえばサイコ・サスペンスの用語の元になった『サイコ』の監督であり、サスペンスに心理学的なものを取り込んだ巨匠である。そのヒッチコックが心理学を真正面からとり上げたのがこの作品ということになる。
映画の冒頭で犯罪は起こる。しかし、その犯人が主人公となるのだから、その犯罪自体は問題とならない。映画の仕舞いまで行っても、その窃盗の原因とか理由とか詳細というものが語られることはない。その辺りのズレというか、展開のぎこちなさがこの映画の弱点といえば弱点なわけだけれど、いわゆるサスペンスとは全く別物と考えれば、それほど違和感はない。
さて、そこで心理学的な分析だが、サイコ・サスペンス全盛、あらゆる心理学的な表現、描写が当たり前になってしまった今の時代から見ると、その仕掛けはあまりに単純すぎるという気がしてしまう。抑圧された記憶、無意識下に押しやられたトラウマが呼び起こす赤という色や男性に触れられるということへの恐怖、そこからはあまりにたやすく過去の出来事を推測することができる。
しかし、それでもヒッチコックが只者ではないのは、そこに母との不仲、あるいは母の冷淡さというものを加えて、その過去の出来事に母親が関係しているのではないかという推測をさせる。そのことで完全にはその出来事を推測することができなくなって、観客の謎解き的な興味をつなぎとめることができるのだ。
そして、もうひとつ加わるのがショーン・コネリー演じるマークのマーニーへの「愛」である。どこでそんなに惹かれたのかはわからないが、とにかく自分を殺してでもマークはマーニーを愛そうとする。そのマークの愛が、この映画を展開させていくのである。マーク自身が言うように、マーニーがかたくなにマークを拒んでいる間は何も変わらない。それはつまり、映画も展開していかないということだ。マーニーがマークの絶え間ない干渉によって徐々に変化していくことによってじわじわと映画も動き出していくのである。
その辺りの展開がさすがはヒッチコックということで、ヒッチコックらしくない体面はしていても、やはりこの映画はヒッチコックの映画だということを感じる。
2回目のレビュー
この映画の最大の謎は、名前まで出してあからさまになされたフロイト的な夢判断と、それに続く自由連想から導き出された精神分析的推測がほぼそのままマーニーのトラウマとなっていたということである。実際に殺したのが母ではなくてマーニーだったというのはマークの調べた事実と、実際残ったことの差異でしかなく、分析(のようなもの)から浮かび上がった、死と赤い色と男性に対する恐怖が関連付けられる原因となる「事件」は存在していたのだ。
まさかこれによってヒッチコックが精神分析学を賛美しようとしているとは思うまい。確かにヒッチコックは心理学的手法をサスペンスに持ち込んで、様々の傑作を作り上げてきた。しかし、それをここまであからさまに利用したことはなかった。
この映画のからくりは、この精神分析的解決があくまでもマークの視点からの解決に過ぎないという点にある。映画はマーニーの後姿から始まる。それはつまり、第三者の視点ということである。そして、もうひとつの視点として採用されるのはマーニーの視点だ。マーニーの視点から眺められているからこそ、母親の態度は冷淡なのであり、そして夢の具体的内容も、赤い色や男性に対する恐怖の原因もわからないということになるのである。
しかし、実はここにマークの視点が最初から混入されている。マークが最初に登場するのはマーニーが盗みを働いた事務所に訪れる客としてである。その時すでにマークはマーニーのことを覚えていて、彼女を欲望の対象としてみている。つまり、冒頭のマーニーの後姿を(下から)眺める視線とは、マークの視線でもある。その視線は第三者(つまり<他者>)の視線というよりは欲望するものの視点である。その視点はマーニーを欲望氏、マーニーは自分を「解放」してくれる<他者>を求めている。
この映画の構造を仮にこのように組み立ててみると、ここで「母親の家」がブラックボックス(染み)として機能するように思えてくる。母の家がある通りの風景(明らかに書割の背景に巨大なタンカーが描かれていて、どん詰まりの通りでやけにたくさんの子供が遊んでいる)の非現実感もその感覚を助長する。この映画にはその母親の視点が絶対的に欠けているのだ。母親はすべてを知っている者として登場しているが、そこからは何も語られないのだ。
最後に事実を明らかにするのも、母親ではなく抑圧された記憶を呼び戻したマーニーである。ここには大きな意味があるのではないかと思うのだ。たとえばこの母親はそもそも存在し得ない大文字の<他者>であるとか…
マークが決してマーニーを放そうとしないメカニズムとはいったい何か。「愛」というならば、そのような愛とはいったいどんなものか、欲望というなら、欲望がそのように作用するのはどういうわけか。マーニーが決して到達し得ない欲望の対象ということになるのか。欲望すること事態が欲望の実現である?
あるいは、精神分析医の誤謬を暴いている? 精神分析医が患者を分析し、解放することから得るのは、自分の全能性という幻想であるということか。つまり、この映画はマークの主観で終わる。そこではマーニーの母親は打ち捨てられ、マークがマーニーの保護者となって終わる。マーニーは決して解放などされていない。それまでトラウマによって無意識に従うようになっていたルールをマークのルールへと変更しただけのことだ。それによって意識の状態としては解放されたかもしれない。しかし母親はどうなるのか。
最後の母親の打ち捨てられた姿、それをどのように解釈するのか。それによってこの映画全体をどのように理解するかが決まってくるのではないか。
まず、マーニーの症候は(マークが思っていたように)母親による圧迫からもたらされたものではなく、自分自身による抑圧からなされたものだった。その抑圧が回帰したとき、症候は解消される。その結果、男性恐怖症が治る。母に対する負い目(殺人を肩代わりしてくれたという無意識的な負い目)が明らかになる。その負い目が明らかになったことで、母親の愛を知ると同時に、明確な形で負い目をも知った。彼女を盗みに掻き立てていたものはいったい何なのかといえば、母親に対する負い目であろう。母親のために母親の望む娘になるために、母親の望むような娘という仮面をかぶり続けるために盗みをし、母に金を送り、羽振りがいいフリをしなければならなかったのだろう。それとも、もっと無意識的な部分で何らかの欲望が盗みという形に転移したということなのか。それはわからないが、ともかくそれが症候のひとつであることは明らかだ。症候が解消されてしまえばもちろん盗癖もなくなる。
結局は母は<他者>の立場を降り、そこにマークが代わって入るだけのような気がする。つまり母は忘れられるのではないか?
そうだとしたら、母とはそもそもマーニーの無意識に過ぎなかったのではないかとも思えてくる。この映画はすべてがマークの視点から語られ、母とは忘れされられるべきトラウマに過ぎなかったということだ。母というトラウマに支配されたマーニーを解放し(予想した以上のものがそこにはあったが)、自分が新たな<他者>として君臨するという完全に一人称の物語ではなかったのか。
となると、今度はマーニーがマークの症候、マーニーはマークにとって決してたどり着くことが出来ない欲望の対象であるはずだ。なぜならば冒頭の欲望に満ちた視線もマークのものであるに違いないからだ。とすると、その欲望の対象を手に入れてしまったマークはどうなるのか。欲望は欲望することに意味があるのであり、その対象を手に入れてしまったら、欲望は消滅してしまう。
この物語の結末はすべてが収まるところに収まったように見えるが、その次に訪れるのは破滅なのではないだろうか?