エスケープ・フロム・LA
2004/7/21
Escape form L.A.
1996年,アメリカ,101分
- 監督
- ジョン・カーペンター
- 脚本
- ジョン・カーペンター
- デブラ・ヒル
- カート・ラッセル
- 撮影
- ゲイリー・B・キッブ
- 音楽
- ジョン・カーペンター
- シャーリー・ウォーカー
- 出演
- カート・ラッセル
- ステイシー・キーチ
- スティーヴ・ブシェミ
- ピーター・フォンダ
- ジョージ・コラフェイス
- ブルース・キャンベル
- パム・グリア
- A・J・ランガー
1998年、犯罪都市と化したLAを、大統領が予言したとおりに地震が襲い、LAは島と化す。そしてその島はそのまま流刑地となって、憲法を改正して終生大統領となったアメリカ合衆国大統領によって、不道徳分子が続々送り込まれた。そして2016年、あのスネーク・プリスキンがそのLAに送り込まれようという時、大統領の娘がアメリカの存亡がかかった装置を持ってLAに降下した…
1981年に作られた『ニューヨーク1997』の続編。舞台をおよそ20年後のLAに移し、スネーク・プリスキンが再び困難な任務に挑む。基本的な構造は前作とまったく同じ。出来ることなら、前作を予習してから観ることをお勧めする。
前作を見た人ならば気づくだろうが、この映画は前作とまったく同じプロットに沿って進んでいく。もちろん枝葉となるエピソードやキャラクターの立て方に違いはあるが、基本的なプロットと、物語の鍵となるポイントではまったく同じことが起きると言っていい。
違いという点で目に付くのは、スネークの周りを固めるキャラクターの役割分担の変化である。前作ではキャビーとブレインというのがその役割を分担していた。この作品ではスティーヴ・ブシェミ演じるエディがそのふたりの両方の役割の大部分を担いつつ、ピーター・フォンダ演じるパイプラインとA・J・ランガー演じるユートピアがそれを補う形になっている。
という違いはあるのだが、それ以外の部分では、警察側の段取りの悪さや、スネークの厄介への巻き込まれ方や、ちょっとしたヒロインの登場の仕方など、「これも同じ、ああ、これも同じ」という展開の繰り返しなのである。 つまり、この映画は完全に予測可能であり、普通に考えればまったく面白みがないはずなのである。前作のコアなファン以外にはこの映画を楽しめるはずはないということになりそうなのである。
CGなども多用され、B級映画を脱するかと思われたが、その肝心のCGがあまりにショボく、何のために予算を使ったのか判らないという代物、やはり特撮という面においても見るべきものはなかった。
しかし、この映画はとてつもなく面白い。前作を見ておいたほうがより面白いが、別に前作を観ていなくても十分に楽しめる。
その面白さの要因のひとつには、この映画の前提となっているアメリカの変貌振りがある。この半世紀を世界の警察国家を標榜して来たアメリカがまさしく警察国家となって、国内に対してもその眼を光らせる。その基本となっているのは宗教で、それはもちろんプロテスタント、現在もアメリカを動かしているWASPの宗教である。そして、その宗教回帰はブッシュをはじめとするいわゆるネオ・コンがよりどころとする理念である。この映画が作られたのは1996年、アメリカの大統領はクリントンであったわけだが、その段階でジョン・カーペンターはネオ・コンの台頭という未来を見透かしていたのか(湾岸戦争と父ブッシュ、チェイニー、ラムズフェルド)、的確に近未来のアメリカ像を(誇張した形ではあるが)提示してしまった。
そして、前作では中ソが敵対勢力として想定されていたのに対して、今度はいわゆる第三世界が敵対勢力となり、その先頭にはキューバが立たされる。敵対勢力の親玉マロイはどう見てもチェ・ゲバラを意識している。そして、彼らの名称「輝ける道」が「センデロ・ルミノソ」を暗示していることは明らかだ。
センデロ・ルミノソといえばペルーの過激派ゲリラである。彼らは南米を搾取するアメリカ合衆国に対する武装勢力である。アメリカが南米支配を強めていた時代、南米の多くの国ではアメリカの傀儡政権とでも言うべき政権が次々と誕生していた。それはもちろん、南米が共産主義化することを恐れたアメリカの政策であり、その政策のもと、虐殺としか言いようのない悲惨な事件が数多く起こった。
現在を考えてみると、今アメリカはそれをイスラム原理主義者といわれる人々に向けている。常に大義大義といいながら、歴史を繰り返している。それがアメリカという国なのだ。
この映画はそこまで踏み込んで作られていると考えたほうがいい。この映画の結末を整合性を持って捉えるにはそうするしかないのだ。世界を救うという大義名分のもとに行われるアメリカの正義は結局のところ自国の利益のための利己的な行為でしかない。
ということを考えてみても、この映画は前作と同じ映画であると言っていい。前作の結末も冷戦構造下での戦争の危機を乗り切るということがテーマになっていたわけで、それが「対テロ戦争」に変わったということに過ぎない。
この映画が前作と異なっているのは、その批判がメディアにも向けられているという点である。そのメディアとは具体的にはハリウッドである。この映画ももちろんハリウッド映画であるわけだが、それでも批判の矛先はハリウッドに向けられている。映画の序盤に海のそこに沈んだユニバーサル・スタジオが登場するのを皮切りに、名だたるハリウッドの超大作を揶揄するように、その舞台となった土地が次々と廃墟として映し出され、締めはディズニー・ランドが荒廃した暴力の都と化している。
この映画の製作会社はパラマウントだから、ライバル会社であるユニバーサルやディズニーをこき下ろすことはたやすかったろう。しかし、それにとどまらず、この批判はハリウッド全体に向けられている。ハリウッドとは歴史を繰り返すアメリカ、暴力の際限のない拡大再生産を行うアメリカの急先鋒なのだ。エスカレートしていく暴力を映画という形で先んじて描くことによって観客の感覚を麻痺させ、実際の暴力に免罪符を与える。そのような機能がハリウッド映画にはあるのだ、などということまでこの映画を観ながら考えてしまった。
もちろんこれは極端な意見ということにはなるが、『華氏911』の配給を拒んだディズニーの例を見れば明らかなように、ハリウッドとはあくまでも権力装置に過ぎないということだ。
この映画はそこをずぶりと突き刺し、自らも血を流す。といいたいところだが、ジョン・カーペンターは周到にその意図を隠しているようにも見える。マイケル・ムーアのようにわかりやすく話題性をさらう作り方とは違って、ジョン・カーペンターは内部からじわじわとその壁を崩して行っているのだ。そのやり方はマイケル・ムーアと比べると非常に慎重で、思慮深い。表面はB級SF映画のような顔をして、社会に対する批判精神を非常に強く持っている。そんな映画を作れるジョン・カーペンターはやはり天才かもしれないと思う。