ふたりの女
2004/7/26
La Ciociara
1960年,イタリア,102分
- 監督
- ヴィットリオ・デ・シーカ
- 脚本
- チェザーレ・ザヴァッティーニ
- 撮影
- ガボール・ポガニー
- 音楽
- アルマンド・トロヴァヨーリ
- 出演
- ソフィア・ローレン
- ジャン=ポール・ベルモンド
- ラフ・ヴァローネ
- エレオノラ・ブラウン
第二次大戦中、ローマで娘のロゼッタと暮らすチェジーラは戦火を逃れるため、隣に住む男に食料品店を任せて生まれ故郷の村へ向かう。村の人々は彼女たちを受け入れ、村の青年ミケーレはチェジーラに好意を抱く。娘のロゼッタもミケーレに淡い恋心を抱いていた…
イタリアの巨匠ヴィットリオ・デ・シーカがソフィア・ローレンとジャン=ポール・ベルモントというふたりの名優を使って撮ったヒューマン・ドラマ、リアリズムを追求したデ・シーカらしい作品。ソフィア・ローレンはこの作品でアカデミー主演女優賞、カンヌ映画祭女優賞を獲得した。
ソフィア・ローレンとジャン=ポール・ベルモンド、このふたりはさすがにいい。ソフィア・ローレンはすでにハリウッドに進出し、ある程度の定評を得ていた。そしてこの作品でアカデミー賞を取って一気にトップ女優となったわけだ。ジャン=ポール・ベルモンドのほうは、前年に『勝手にしやがれ』を撮っているから、フランスでは注目を集めていただろうが、それ以外、特にハリウッドではまだまだこれから売り出すというところだったという感じである。
そのふたりが非常に魅力的に主役を演じているのがこの作品だ。ジャン=ポール・ベルモントは映画の終盤に差し掛かるあたりで舞台から姿を消してしまい、そこから映画のクライマックスがやってくるということになるわけだが、このクライマックスというのにもいなくなってしまったミケーレの存在が深く関わってきているのだ。
戦争映画としてはこのクライマックスの部分がどうしても注目されがちだが、私にはこのクライマックスの後に来るラストにこそ意味があるように思える。
!!ここからネタばれ!!
ドイツ兵に連れ去られたミケーレは映画からは姿を消す。しかし、ふたりの親子の心には常にミケーレがよりどころとして存在している。とくにロゼッタはミケーレのためにローマに帰らないことを無言で主張するのだ。しかし、チェジーラはそれを押し切ってローマに向かい、その行動が結果的に悲劇を招いてしまうことになるのだ。
その悲劇の衝撃性は、それがこの映画のクライマックスであるかのような錯覚を与える。しかしその映画がもたらすのは停止でしかない。悲劇に心を閉ざしても時は進み、人生は続く。その停止状態がミケーレの死の知らせで解けるとき、この映画の本当の意味が明らかになるような気がするのだ。
まさにデ・シーカのリアリストらしさがここにある。悲劇としか言いようのない悲劇を描くことで現実の厳しさ、悲劇性を表現する。そして、そこにはその悲劇をもたらしたモロッコ兵の存在なくしてはイタリアが解放されえなかったという事実も隠されている。解放者として現れたアメリカ軍がもたらす新たな悲劇。ここにはアメリカ批判が込められているとは思わないが、戦争という悲劇が生み出す更なる悲劇が描かれている。
!!ここまで!!
とにかくも、ソフィア・ローレンとジャン=ポール・ベルモンドというふたりの名優の共演を見ていれば、それだけで十分という気もする。
ちなみにこの作品は、1989年に同じソフィア・ローレンの主演でリメイクされている。プロデュースも同じカルロ・ポンティ(ソフィア・ローレンの夫)。