太陽の季節
2004/7/31
1956年,日本,89分
- 監督
- 古川卓巳
- 原作
- 石原慎太郎
- 脚本
- 古川卓巳
- 撮影
- 伊佐山三郎
- 音楽
- 佐藤勝
- 出演
- 長門裕之
- 三島耕
- 南田洋子
- 市村博
- 佐野浅夫
- 石原裕次郎
- 東谷暎子
- 岡田真澄
- 石原慎太郎
湘南にある高校の学生津川竜哉は拳闘に興味を持ち、拳闘部に入る。ある日、その仲間5人と町に出かけ、3人連れの女に声をかける。そのうちのひとり英子と津川は意気投合し、英子は後日行われた拳闘の試合に応援に来る。ふたりは徐々に接近し、そのうちに夏休みを迎える…
若者の破天荒な生活を描いて芥川賞を受賞し、「太陽族」の語源ともなった石原慎太郎の同名小説の映画化。石原裕次郎は兄の引き合わせで「太陽族の言葉を指導する」という名目でスタッフに入り込み、脇役で映画デビューを果たした。
太陽族、太陽族というけれど、太陽族っていったいなんだ? 基本的には戦後の若者の破天荒な生活、フリー・セックスとは言わないけれど、性の捉え方の変化も含んだ新しい価値観を持った若者たちということになる。“太陽族”という呼称自体は大人がつけたものだろうし、小説「太陽の季節」が出版される以前からそのような若者はいたはずだ(石原裕次郎がまさにその代表のような暴れん坊で兄の慎太郎が手を焼いていたというのは有名な話)。そして、この映画を観る限りでは彼らは相当な金持ちだ。金と暇と自由がなければ、破天荒には振舞えない。つまり、太陽族、太陽族と騒がれはしたが、それは若者のほんの一部に過ぎなかったと推測できる。それでも彼らはスキャンダラスであり、若者たちの目を惹いた。アメリカでビートニックが目を惹いたようにである。
ということだが、映画を観るかぎり、今から見ると、それほどスキャンダラスという感じはしない。主人公の津川と英子はなんだか実はすごく真面目だし、周りの仲間はただ騒いでいるだけだ。原作はもっと生々しい生態が描かれていたということだから、映画ということで自重したのかもしれないとも思う。
ということなので、太陽族の映画ということは置いておいて、純粋に映画としてみてみよう。そう考えると、これは津川と英子の純愛物語である。どちらも悪ぶって「泣けない、愛せない」というけれど、その態度がいかに変化していくのかということが描かれていると考えることが出来る。そのような物語としてはまあまあというレベルで、特別面白いというものではない。
この映画の特徴といえるのは、音楽が変わっていること。とにかく全編にわたってウクレレの音色が響き、盛り上がりどころでは大げさすぎるほどのBGMがかかる。この音楽は風景やら演技やらのうそっぽさとも合わさって、全体を作り物じみた雰囲気にする。この映画にはまったくリアルさがかけているのだ。浜辺の風景もなんだかセットに見えるし、津川と英子が酔っ払って語り合うシーンの絵に描いたような酔っ払いの演技は噴飯ものの大げささである。これはこの監督に才能がないのか、狙いなのか、それとも(それプラス)役者が下手なだけなのか。とにかくなんとも変な映画である。
ということろで裕次郎である。公開された当時はただの素人だったわけだが、今この映画を語られるときにはまず「裕次郎のデビュー作」という語られ方をする。しかし、本当のチョイ役で、プロットに関わるような台詞はないし、アップになるのも1度か2度、目立つ役とはいえない。しかしそれでも印象に残るのはわれわれが「裕次郎」を意識して見ているからばかりではないような気がする。このチョイ役からまもなく裕次郎はスターになってしまうのである。
しかし、よく観察してみると、その立ち居振る舞いは素人丸出しだし、格好やしぐさも野暮ったい。顔は南田洋子と並ぶくらいに目立つ顔ではあるが、どうも田舎の兄ちゃんという風情なのだ。
裕次郎のデビュー作に、太陽族映画の第1作と話題は豊富だけれど、映画としてはまあふつうなのかもしれない。