嵐を呼ぶ男
2004/8/4
1957年,日本,100分
- 監督
- 井上梅次
- 原作
- 井上梅次
- 脚本
- 井上梅次
- 西島大
- 作画
- 岩佐一泉
- 音楽
- 大森盛太郎
- 出演
- 石原裕次郎
- 北原三枝
- 岡田真澄
- 青山恭二
- 芦川いづみ
- 白木マリ
- 笈田敏夫
- 金子信雄
銀座でキャバレーの女性マネージャーをしている美弥子は人気者となり天狗となったドラマーのチャーリーに手を焼いていた。そこに若者が兄をドラマーにしてくれと売り込んでくる。その兄・国分正一はあたりでも評判の暴れん坊だったが、チャーリーが勝手に休んだのをきっかけに、美弥子は正一を使うことにする。
ドラマーとしての成功を目指す若者を兄弟愛を中心に描いた青春物語。石原裕次郎が劇中で歌う「おいらはドラマー~」でおなじみの「嵐を呼ぶ男」が大ヒットし、裕次郎は大スターへの階段をまた一歩上った。
物語としては正一と英次の母の存在がなかなか厄介だ。正一を嫌って、弟の英次ばかりかわいがる母親の行動が正一の性格形成や、行動の動機付けに寄与しているわけだけれど、あまりにステレオタイプというか、ご都合主義のキャラクターであり、「さすがに、そんな母親はいない」と思わせてしまうのだ。そこがこの映画で一番引っかかったところである。映画の本筋ではないが、幼い子供を残して父親が女と逃げ、母親は貧しい生活の中で細腕一本で二人を育てて、その結果正一が父親のような女好きの遊び人になってしまったということで正一を憎むようになった。というのはセリフの端々から推測できるわけだが、それに慕ってあんな扱いはない。親子3人で十数年の時を過ごしてきたんだから、もう少し見えない絆のようなものができていてもいいのではないかなどと思うのだ。
そのあたりが気になって、どうにも物語りに入っていくことができなかった。このころの日活のスターものの弱点はこのような物語の細部の詰めの甘さにある。全体的には面白く、楽しめるストーリーなのだが、細部には付け入る隙があまりにたくさんありすぎる。その辺りで、今見るとやはり、スターのための娯楽映画に過ぎないと見られてしまうのだと思う。
それでも、なかなか面白い映画ではある。音楽界での成功を目指す兄弟がいて、その兄弟が都会の夜の大きな力に飲まれそうになりながら、兄は弟を守ろうと踏ん張る。そこに、キャバレーという裏の世界につながるものがあり、音楽評論家という胡散臭い存在がいる(その音楽評論家・左京を演じる金子信雄がなかなかいい)。それはまさに東京の像、田舎から見た都会の像である。夜の銀座の華やかなネオンの裏に隠されたくらい世界。映画で繰り返し描かれてきた世界ではあるが、面白いからこそ繰り返し描かれてきたともいえるだろう。普通の人たちと裏の世界との微妙な関係性がうまく物語に織り込まれてることで、映画は面白くなったのだと思う。
しかし、そうは言ってもやはり、この映画はスターのための娯楽映画に過ぎないが、そもそもそうだからそれでいいのだという見方もできる。この映画はあくまでも石原裕次郎の映画、そして北原三枝の映画なのである。公開された当時はそのように見られ、それで面白かったのだからよかったのだ。確かに今見ても、裕次郎は格好いいし、なんといっても歌がうまい。「おいらはドラマー~」という曲は映画とあわせて大ヒット。劇中で観客が熱狂しているように、映画館やラジオの前でうら若き女性たちが熱狂した様子が容易に想像できる。これぞまさにスター映画。裕次郎映画なのだから、これでいいといえばいいのだ。
さて、そんなスター映画ではあるが、裕次郎を観る以外にもいろいろ楽しみもある。役者で言えば、芦川いづみがすごくフレッシュでいい。後には日活のスター映画の相手役として数多くの映画に出るわけだが、ここでは控えめに、長屋の大家の娘という役を演じている。その控えめな感じがとてもいい。
後は、銀座の様子だろうか。この映画が作られたのは50年近く前、今からは想像できないような喧騒が銀座にあった。ダンサーがジャズバンドを後ろに従えて踊るようなキャバレーなんてものも今ではほとんどなくなってしまったし、そもそも銀座がネオン街という発想がそもそもなくなってしまった。
繁華街の移り変わりは速い。高度経済成長はさまざまなものを変えてしまった。そんなノスタルジーを感じるにはいい映画である。