ソラリス
2004/8/17
Solaris
2002年,アメリカ,99分
- 監督
- スティーヴン・ソダーバーグ
- 原作
- スタニスワフ・レム
- 脚本
- スティーヴン・ソダーバーグ
- 撮影
- ピーター・アンドリュース
- 音楽
- クリフ・マルティネス
- 出演
- ジョージ・クルーニー
- ナターシャ・マケルホーン
- ジェレミー・デイヴィス
- ヴィオラ・デイヴィス
- ウルリッヒ・トゥクール
精神科医のクリスにもとに友人のジバリアンのメッセージを持った使者が現れる。クリスはそのメッセージにしたがって、ジバリアンのいる惑星ソラリスの軌道上の宇宙ステーションへと向かう。しかし、着いてみると、ジバリアンともうひとりの乗組員がすでに死に、他の乗組員たちも何かにおびえているようだった…
タルコフスキーの『惑星ソラリス』のリメイクというよりは、スタニスワフ・レムの小説「ソラリスの陽のもとに」の再映画化。タルコフスキーのものよりもわかりやすくなったが、その分、哲学的な部分は減ってしまった。
「客人」たちがいったいなんであるのかをこの作品は明らかにしてしまっている。それは人間が放出している何かの物質化である。もちろん放出している何かも何らかのエネルギーを持った物質ではあるのだろうが、それが人間が見て、触れて、話すことが出来る存在になったというところで、「物質化」といいたくなるような現象である。
問題は、それがソラリスからやってきたものではなく、あくまでも人間のほうから出てきたものだという点だ。記憶とは基本的には電気信号である。その微弱な電波の流れが脳の中にかにとどまっているとは簡単には断言できない。もしかしたら、人間の脳の中を伝わっているはずの電気信号はそれこそソラリスのフレアのように脳の外に漏れ出ているのかもしれないのだ。ソラリスはそれを具現化してしまう。
そのようなソラリスを人間は擬人化してしまい、そのことで話はややこしくなるのだが、その擬人化さえやめれば、非常に単純な現象であるということがわかる。ソラリスは脳から触れあのように放出された記憶を具現化する。それは安定化してしまえば、それだけで成長をはじめ、人格まで持つ。
それに戸惑い、喜んだり、悲しんだり、憤ったりすうのはただ人間だけの問題であるのだ。そこにソラリスは関係ない。具現化された自分自身の記憶にどう対処するのかは、それぞれの個人の問題でしかないのだ。
その意味で、ジバリアンが精神科医であるクリスに助けを求めたのは正しかった。つまり、過去の記憶を整理し、その記憶をうまく処理することが出来れば、次に進める。それを進めるのが精神科医の仕事であるからだ。しかし、そのクリスもまた過去の呪縛に捉えられてしまった。精神科医はひとのセラピーをするのは専門だが、だからといって、自分の記憶にうまく対処できるとは限らないのだ。
つまり、この映画は精神分析の物語だ。タルコフスキーの『惑星ソラリス』は哲学の物語であった。「人間とは何か」「存在とは何か」「意識とは何か」と問いかけてくる哲学の物語であった。それに対してこの映画は「あなたは過去とどう向き合うか」という精神分析の物語であるのだ。
この変化はソ連とアメリカの違い、そして70年代と現在の違いを見事に象徴していると思う。70年代ソ連では問われるべきは哲学であった。しかし、現在のアメリカでは問われるべきは精神分析なのだ。石を投げれば弁護士かセラピストにあたるといわれるアメリカ社会、その中で「ソラリス」が問い直されたとき、これが精神分析の物語だと捉えられるのはある意味当然の帰結だったのだと思う。
そして、物語としては2つの選択肢が用意され、そのどちらかが正解であるとか、どちらが望ましいとか言うことなく終わる。しかし、2つの選択肢が用意されていることこそがこの映画の結末なのだ。複雑な思念の網の目の中に捉えられるのではなく、問題を整理して、2つの選択肢に還元してしまう。それがこの映画が極めて精神分析的(あるいはセラピー的)である部分であるのだと思う。
個人的にはタルコフスキーの『惑星ソラリス』のほうが好きだが、このソダーバーグ版を見ることによっていっそうタルコフスキー版の意味も見えてくるような気もする。ある意味、「人間」をどう捉えるか、その違いが小説の解釈の仕方に差を生み、それがこの2つの作品の違いになったのだと思う。どちらがフィットするかは、時代や場所や個人の資質や気分によって違ってくると思う。