復讐するは我にあり
2004/8/24
1979年,日本,140分
- 監督
- 今村昌平
- 原作
- 佐木隆三
- 脚本
- 馬場当
- 撮影
- 姫田真佐久
- 音楽
- 池辺晋一郎
- 出演
- 緒方拳
- 三国連太郎
- 倍賞美津子
- 小川真由美
- ミヤコ蝶々
- 清川虹子
- 殿山泰司
- フランキー堺
70日以上の逃亡生活の末に逮捕された連続殺人犯の榎津巌、最初の殺人は顔見知りの専売公社社員の柴田種次郎とその友人の馬場大八で、その狙いは柴田の40万円の現金であった。逮捕された榎津はその殺人については多くを語らないが、その後の逃亡生活については能弁に語り始める。
映画はその榎津の話を中心に、彼が殺人を犯す前のこと、殺人を犯した後のこと、彼の妻と父のことをクロスオーバーさせながら展開される。
佐木隆三が直木賞を獲得した同名小説の映画化。全体が暗いトーンで統一された鬱屈とした映像と、出演者たちの迫力ある演技が見もの。ブルーリボン賞、日本アカデミー賞など日本の映画賞で数多くの賞を受賞した。
映画全体を観てみて、印象が強いのは映画そのものよりも俳優たちの存在感である。特に緒方拳、三国連太郎、倍賞美津子の3人の存在感がものすごい。緒方拳は映画のはじめから殺人犯として登場し、映画の主役である。しかし、この映画はその犯人の心理に迫ることはせず、不気味な存在としたままで彼を描き続ける。
基本的には調書を取っているフランキー堺演じる刑事に対するひとり語りとしてその物語は語られるわけだが、にもかかわらず真情を吐露するようなセリフや描写はほとんど出てこない。逆に時折はさまれる捜査の様子(おそらくフランキー堺演じる刑事が榎津に対して話して聞かせたエピソードなのだろう)のほうがより主観的なもののように見える。
その禁欲的な描き方によって榎津巌というキャラクターは引き立ち、緒方拳の存在感は増す。目には常に凄みがあり、怒りとも悪意とも取れるような力強い光を放っている。そして行動に予想がつかず、その行動の理由がほとんど説明されない。なんと言っても、最初の殺人を犯すことになるまでの経緯が審らかにならないというのがなんとも腑に落ちない。彼はそのことによって何かを隠そうとしているのだろうか(そのことは追求されない)。
まず第1の殺人が描かれ、次に少年時代にさかのぼって殺人を犯すことになる前までの出来事がつづられる。そこで焦点となるのは榎津よりはその父と妻の関係である。それはさておいても、巌が家を飛び出すところで物語りは断絶し、殺人を犯した後へと時間は飛躍する。その家を出るときに巌はおどけた動作をしてみせる。それは非常に印象に残るのだが、そのおどけるという行為にそのとき彼が抱えていた感情が込められているのではないかと思う。妻に裏切られ、しかもその相手が自分の父親であるという事実(本当は事実ではないのだが、巌がそうだと思い込んでいれば彼にとっては紛れもない事実である)を突きつけられた彼がそのとき何を思ったのか。そのことは映画の最後まで謎として残り、われわれの心に何かぬるりとした痕跡を残していく。
この映画は徹頭徹尾「死」の意味を否定している映画なのではないかと思う。榎津の最初の殺人の動機が明らかにならないのも、そこに明確な理由がないからであり、それはつまり彼にとっては「死」というものに決定的な意味がなかったからということになるのかもしれないと思う。彼は遺書を残して、姿を消したこともある。果たしてそれは偽装であったが、それは彼が「死」をもてあそんでいる。あるいは「死」にあまりに多くの意味をかぶせる周囲に人々をもてあそんでいるということになりはしないだろうか。
彼にとって「死」とは生の終り以上のものを何も意味しない。ならば、彼と関わりのない生の終わりとしての死は彼には関わりのないものであるということになる。だから人を殺すことに躊躇がない。
私は別にここで殺人者の論理を弁護しようとしているわけではない。これが意味するのは、彼自身の死は逆に彼にとっては意味があるということなのである。つまり人を殺すことは平気だが、自分が死ぬのは我慢ならないという究極的な自己中心性がそこにあるのだ。この究極的な自己中心性というのは、今村昌平が描き続けてきた「欲望」を突き詰めた結果行き着くものなのではないだろうか。欲望とはそもそも自己中心的なものでしかありえない。自己の欲望とは基本的には他者を押しのけることによって実現されるのだ。
だからそれを突き詰めていけば、他人を殺すことも欲望の充足以上の意味は持たなくなってしまう。
つまり、榎津巌とは欲望の塊であるのだ。