13F
2004/9/17
The Thirteenth Floor
1999年,アメリカ,100分
- 監督
- ジョセフ・ラスナック
- 原作
- ダニエル・ガロニー
- 脚本
- ジョセフ・ラスナック
- 撮影
- ウェディゴ・フォン・シュルツェンドーフ
- 音楽
- ハロルド・クローサー
- 出演
- クレイグ・ビアーコ
- グレッチェン・モル
- ヴィンセント・ドノフリオ
- アーミン・ミューラー=スタール
- デニス・ヘイスバート
1937年のロサンゼルス、フラーはなじみの店のバーテンダーにダグラス・ホールに渡してくれと言って手紙を託す。そのまま家に帰り眠りにつくと、目覚めたのは“現代”のロサンゼルス、彼は仮想現実装置の実験をしていたのだった。そしてバーに向かった彼はダグラスに電話をして留守電を残すが、しかしそこにやってきた男に殺されてしまう。一方ダグラスは朝目覚めると、洗面所で血染めのワイシャツを発見する…
ローランド・エメリッヒが製作した本格SFスリラー。現実と仮想現実が交錯し、人々を恐怖に陥れる。まさにメディア時代の恐怖という感じで面白い。
仮想現実ということで『マトリックス』を想起させることは間違いない。しかも作られたのは『マトリックス』より後、ということは2匹目のどじょうを狙ったとも言われかねないだろう。
しかし、実際のところこの映画と『マトリックス』とは根本から異なっている。『マトリックス』とは根本的にいやおうなしに仮想現実世界に存在している人々の物語であり、その前提にあるのは機械による支配という現在とは隔絶した「物語」である。しかしこの作品の前提にあっているのは紛れもなく現在の世界であり、しかも仮想現実空間の構築という想定は近い将来に実現すると想像できる技術でしかない。そして『マトリックス』がそのような与えられた苦境から脱しようというヒーローの冒険譚であるのに対して、この作品は自らが作り出した現実に何とか対処しようとする人間の物語である。つまり、『マトリックス』が観客を魅了するために作られたファンタジーであるのに対して、この作品はあくまでもSF的な発想から生み出されているのだ。
そして、そのSF的な発想の原点にあるのは、人間の脳の分析である。この作品で登場する仮想現実のプログラムは、人間の脳の内容を仮想現実内のヴァーチャルな個体にダウンロードして、あたかもその人物であるかのように動き回ることが出来るようにするというものである。そのためには人間の脳のどの部分がどのような体の機能をつかさどっているのかを完全に分析し、完全なる脳の似像としてヴァーチャルな個体を組み立てなければいけない。それはいわゆるAI技術であり、それが実現しなければこの作品の仮想現実空間は成立しえないわけだ。
そのようなAIが実現したとき(そう簡単には実現しそうに無い気もするが、スペースや電力の制約が無いのなら、そうそう不可能なことでもないだろう)、AIの内容がもとの人間の脳にフィードバックされないかどうか、というのが問題になってくるわけだ。つまり、人間のものだった脳の内容がヴァーチャルな固体のほうに移り、ヴァーチャルな個体のプログラムが人間の脳のほうにアップロードされてしまうことはありえないのか、ということだ。
もうひとつ問題になってくるのは仮想現実空間に作り上げられた固体の人格の問題である。映画の冒頭にデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉が引用されているように、果たして仮想現実で人格を与えられた「もの」は本当に人間ではないのか。ということだ。それらが人間とまったく同じようにプログラムされているとしたら、様々な悲しみや絶望も経験するだろうし、そうなると自分が仮想現実の存在である(つまり存在しない)ということに気づいてしまったときにどのように反応するのかということだ。それはわれわれが「あなたはコンピュータのプログラムで、現実には存在しない」といわれたときとまったく同じ反応であるはずだ。
ここで再び『マトリックス』が想い出されるわけだが、この作品の仮想現実の人々はその世界からジャックアウトすることは出来ない。彼らはわれわれの現実から見れば「完全に」存在しないのだから。そのとき彼らは「思っ」ているのに「ある」ことは出来ないということになってしまうのだ。
そしてさらに、もしその仮想現実の人格が現実の人間にアップロードされうるのだとしたら、そのアップロードされた人物とはいったい誰なのか。彼はそのとき初めて「ある」と言える存在になったのか、それともそれ以前から「あった」のか…
この意識と存在の問題はそのままロボットの問題にも発展させることが出来る。それは完全なAIを備えたロボットは人間ではないのか、という古典的なSFの問題に至るというわけだ。それはつまり人間と機械の境界をあいまいにするものでもある。
そのようにしてこの作品は次々とSF的な問題をわれわれに投げかけてくる。そこから浮かび上がってくる問題はやはり、「われわれは本当に存在しているのか?」という疑問だろう。
そしてこの映画はその疑問にも、さらなる疑問をぶつけてきて、われわれを考えさせてくれる。ネタばれ防止のためここには詳しくは書かないが、この作品は奥深くに哲学的な疑問を孕んだ作品なのだと思う。