禁断の惑星
2004/9/22
Forbidden Planet
1956年,アメリカ,98分
- 監督
- フレッド・マクロード・ウィルコック
- 原作
- アービング・ブロック
- アレン・アドラー
- 脚本
- シリル・ヒューム
- 撮影
- ジョージ・J・フォルシー
- 出演
- ウヲルター・ピジョン
- アン・フランシス
- レスリー・ニールセン
- ウォーレン・スティーヴンス
- ジャック・ケリー
- リチャード・アンダーソン
- ロビー・ザ・ロボット
時は23世紀、アダムス船長とクルーたちは20年前に探検隊が降り立ち消息不明となっている惑星アルテア4の調査に派遣された。そして生存者であるモービアス博士と交信することに成功、しかし博士は調査隊にすぐ引き返すように言う。その反対を押し切って惑星に降り立ったアダムス船長は博士から他の隊員たちが謎の死を遂げたという事実を聞かされる…
1950年代という早い時期に撮られたSFの名作、SFといえば子供だましのモンスターものが多かった時代にしっかりした大人向けの洗練されたSFを作った点だけでも賞賛に値する。完成度も高い。
何が面白いかといえば、まず非常にしっかりとしたつくりだということだ。いかにも昔風の特撮の拙さなどに眼を奪われがちだが、それはそれとして見れば、この映画がいかにSFとして本格的なのかを見て取ることが出来る。 まずひとつには、この映画の物語がある普遍性を持っているということだ。SFの常套手段といえば、ロボットかエイリアン。そしてこの映画は外惑星に行った人が謎の死を遂げるという意味で、エイリアンものだろうという予想をつけることが出来る。そしていかにもそうであるかのように進み、エイリアンの姿が映し出された入りもする。そのあたりの緊張感の高まりもSFスリラーとしては欠かせない要素である。
とはいえ、これがエイリアンものであるから正統派のSFだといいたいのではない。ではなくて、むしろこの物語の主人公が人間であることこそがこの映画が正統なSFであることの証明になるのだ。まっとうなSFというのは恐ろしいエイリアンが出てきて恐怖をあおり、人間対エイリアンという完全懲悪の二分法の物語がそこから出てくるのではなく、そのエイリアンを外因として人間同士の相克が立ち現れてくるようなものなのだ。簡単に言ってしまえば、本当の敵は内にあるということだが、この「内」とは人類の内であり、仲間の内であり、そして自分自身の内でもある。
この映画もそのような自己に回帰してくるような展開を見せるところが面白いのだ。そして、その要因として外惑星と舞台とエイリアンという誘因が用意されているということだ。
さらにいえば、この映画はSFとして正統であるという以上に、物語として正統な、あるいは伝統的なものである。この映画はおそらくシェイクスピアのテンペストを基にしていると思われる。映画にクレジットされてはいないが、著作権が無いのでクレジットする必要は無いということだろう。しかし、物語の構成として明らかに「テンペスト」を借りている。それはつまり、この映画の構成が古典的に人々に受け入れやすい物語であるということを意味している。
しかし、この映画とテンペストには決定的な違いがある。「テンペスト」はプロスペロー(この映画でいえばモービアス博士)という「不当に王国を奪われた男」の物語であるのに対し、モービアス博士は何も奪われてなどいないという点だ。先住民としてのキャリバンとクレルも明らかに違う。ただ、「テンペスト」に登場する妖精エアリアルがこの映画ではロボットのロビーになっているという点は非常に面白い。ロビーはまさに未来の天使、機械工学が生んだ天使そのものなのだ。
そして、このロビーの存在というのが、この映画がしっかりとしたSFであるというもうひとつの点である。SFには本筋とはあまり関係が無いが、すごく魅力的なキャラクターというものが絶対に必要になる。それはその物語がシリアス一辺倒の物語でないことを示す指標にもなるし、小難しい言葉や論理で鬱屈となりがちな世界をぱっと明るくする効果もある。SFとは哲学的で化学的でありながら、あくまでも娯楽であるということを確証する存在としてこの映画のロビーのような道化、あるいはトリック・スターが必要になってくるのだ。
しっかりした展開力と、それを支える空想科学的、あるいは哲学的/心理学的理論立てと、古典的な物語構造と、SF的なトリック・スターの存在、どこを撮ってもこの映画はまさにSFの古典中の古典、SF映画の教科書のような映画であるのだ。