アライバル
2004/10/3
The Arrival
1996年,アメリカ,115分
- 監督
- デヴィッド・トゥーヒー
- 脚本
- デヴィッド・トゥーヒー
- 撮影
- ヒロ・ナリタ
- 音楽
- アーサー・ケンペル
- 出演
- チャーリー・シーン
- リンゼイ・クローズ
- テリー・ポロ
- ロン・シルヴァー
- トニー・T・ジョンソン
- フィリス・アップルゲイト
宇宙観測所に勤めるゼインはある夜、正体不明の電波をキャッチし、NASAに提出するが、ゼインはプロジェクトの縮小を理由に解雇されてしまう。ゼインはボスであるコーディーに調査を進めるよう執拗に頼むが、ゼインの周囲では不穏な出来事が次々と起こり、ゼインは疑いを強めていく…
エイリアンものの根強い人気を証明するようなエイリアンものの佳作。同時期に『インディペンデンス・デイ』が公開されたせいか、ヒットはしなかったが、SFとしての質は『インディペンデンス・デイ』より上だと思う。
エイリアンと人間が対決するという映画にはいろいろなものがある。その名も『エイリアン』のように外惑星に行ってエイリアンに遭遇するというもの、『インディペンデンス・デイ』のようにエイリアンが地球に攻めてくるというもの、そしてこの映画のように気づかぬ間に人間の間にエイリアンが入り込んでいるというものだ。
この「気づかぬ間に…」というパターンは観客の恐怖をあおるという点ではもっとも強力だ。明白に対立する場合は別世界のこととして認識することが簡単だけれど、このパターンの場合は絶対無いとは思っていても「もしかしたら…」とも思ってしまうからだ。
したがってこの「気づかぬ間に…」というパターンの映画が成功するかどうかは、その入り込み方にいかにリアリティがあるかということにかかってくることになる。
ではこの映画はどうか。はっきり言って、こんなに大量のエイリアンが気づかれるに入り込むというのは難しいと思うし、人間をだまそうとするやり方があまりに単純すぎるという気がする。これでは気づかれるのは時間の問題だったのではないか、というかここまで気づかれずにできてしまったということにあまり信憑性はなくなってしまう。
強大な力を持つようになってからは簡単だが、そこに至るまでにどのような過程を経てきたのか、そのあたりが見えないところがどうも弱い気がする。
そして、それも含めて、この映画は物語というかプロットがどうも弱い。うだつのあがらない観測所の研究者が壮大な陰謀に気づいてしまう。無力の個人対強大な力、そのような構図の物語は無数に作られてきた。それは、ダヴィデとゴリアテの例を挙げるまでもなく、ひとつの原物語であるのだと思う。この原物語は必ずヒーローを産む。無力な個人(善)が強大な力(悪)を倒すというヒーロー物語として語られていくわけだ。そして、この映画もその例に漏れない。うだつの挙がらない研究者として登場したチャーリー・シーン演じるゼインはいつの間にやらある種超人的とも言えるような力を発揮するヒーローになってしまっている。
いまさらそのような原物語をすんなりとなぞるプロットの拙さをあげつらうこともないとは思うのだが、この映画のプロットはあまりに工夫がなさ過ぎ、物語の展開にはまったく面白みがない。
この映画の面白みといえば、そのほとんどはエイリアンの側にある。エイリアンを創造するというのはまったく自由な行為で、それを作る人の感性に完全に任されるわけだ。そんな中でこのキャラクターを作ったのはなかなかオリジナルな才能を感じる(その詳細はネタばれ防止のため書きませんが)。環境問題と組み合わせるそのやり方といい、あまり強くなりすぎないようにする工夫といい、映画に緊張感とテーマ性を与えるのに非常によく寄与していると思う。
というよりは、このエイリアンの創造以外にこの映画に見所はないともいえるのだ。しかし、SFというのは物語で観客をひきつけることも出来るが、このような細部で観客をひきつけることも可能なのだ。したがって、この映画はSFとしてはそこそこ及第点なのだろうと思う。だが、スペクタクルとしてはまったくもって失格である。あまりに安易過ぎる。